マナーは尊く、ルールは卑しい

昨日(2017年4月5日)の名古屋は
絶好の桜の花見日和で、
ちょうどお昼に時間が取れたので、
家から車で15分ほどのところにある
名古屋某所の有名な桜スポットへ行って
見てきました。

公園の桜ではなく、
閑静な住宅街を
3kmくらいに渡って
北から南へ縦断するように流れる
小さな川辺の桜並木です。

基本的に住宅街ですので、
花見客の場所取りや、
どんちゃん騒ぎがないのが良いところです。

花見客も、
住宅周辺ではそれなりに気を使っていることもあるのか、
人混みの、それも宴会をやっているような場所
特有の雑然さもなく、
街なかの喧騒が嘘のような穏やかな空間がそこにはあります。

とはいえ、やはり
住宅街から少し離れ、
公共施設の建ち並ぶエリアでは
マナー知らずの路上駐車が多くあるのか、
「ここ(川)に路上駐車は似合いません!」
という看板が立てられていたりします。

僕の行った時間も、
確かに路上に止められた車は、
数台程度あるにはありましたが、
やはり最盛期の特に夜とかになると
もしかしたら、
そういう違法駐車が多いのかもしれません。

さて、
世の中には
上述したところの
「マナー」という概念と、
もう一つ、
「ルール」という概念があります。

結論から言ってしまえば、
「ルール」というものには、
個人的には「稚拙さ」を感じてしまいます。
なぜなら、
「そもそものマナーが理解できない」人間のために
否応無しに強制するものである気がするからです。
何より、「稚拙」以前に
とにかくそれでは窮屈です。

全ての人が「マナー」という美徳を実践できるのであれば、
別にルールなどわざわざ設けなくても、
世界は何も荒れはしないのだから。

世界中、全ての人が
真の善人であるのなら、
法律も警察も必要はないのだけど、
集団として、あるいは大きく、国家として
「ルール」という概念を
絶対的な拠り所としなければ
秩序を保てないのが人間であるならば、
やはりそこに、「人類の民度」の
限界があるのかもしれません。

「マナー」というものは、
論理的に求められる解のように
導き出す質のものではないと感じます。
論理というステージのさらに上にある
感性の部分から「発露」するものなのだと思うのです。

故に、
「ルール」という秩序の地べたを
張り付いているような世界観を生きていては、
人間は、あるいは、
世界は何一つ良くはなりはしないのでしょう。

例えば、冒頭の路上駐車の話で喩えるなら、
駐車禁止の標識や、
それを啓蒙する立て札などなくても、
つまり、
誰から「ここに車を停めるな」と
言われることなどなくても、
そして、たとえそこが
法的に停車して良い場所であったとしても、
「閑静な花見スポット」周辺に
ずらずらと路上駐車の車が並ぶのは
無粋だよね、と、
さらに言うなら、
それをルールとして誰かに言われて
強制させられるとか、
あまりに無粋だよね、と、
自然に、景観の邪魔にならない
然るべき場所に車を止められる『センス』
の話なのです。

こういう些細な事柄から始めて、
人間が「本当の賢さ」を身につけられないうちは、
人類はいつまでたっても
「法」に縛られて生きなければならないし、
また同時に、
その「法」を行使するものたちの
奴隷であり続けなければならないのです。