スーパーに何でも売っているという面白みの無さ

先日、うちの母が
スーパーのチラシを見て、
「これといったものがないなあ」
と呟いていました。

まあこれは、
日々、チラシを見てスーパーでの
買い物をする人、というか、
チラシを見て食事のメニューを決める人であれば
よくある、心当たりのあることだと思います。

僕自身ふと、チラシを見て気づいたのですが、
スーパーには
決して「品揃えに不便がある」わけではないのです。
日常生活で「全く困らない程度」のものであれば
どこのスーパーへ、あるいはコンビニでさえ
どこへ行っても、同じ地域であれば
同じような値段で売っているのです。

にも拘らず、
その網羅された食品群を一通り目を通してもなお、
「これといったものがない」
この感覚というのは
「戦後」と呼ばれるくらい昔の昭和であれば
「贅沢な悩み」と片付けられていた類の
心理ではないかと思えるのです。

人は「多くのものがフラットに」揃っていると
何を選べばいいのか分からないのものなのです。

けれど実はもっと根の深い問題がここにはあって、
それが、
「献立に困るという本質」ということから生じる
『情熱の不在』という心理なのです。

サルトル流に例えるなら
「献立に困る」という「実際の存在」に囚われて
「これが食べたい」という「本質」が見えなくなっている状態、
つまり『自由の刑に処せられている』がために起こる
ちょっとした昼下がりの憂鬱なのではないかと思えます。

チラシの安売りの人参は
決して「人参」として安売りされているわけではないのです。
買われて家に来て、
「何かに調理されるために」
安売りされている人参になのです、ということ。

献立にパッションを感じていないうちは
まだいいのです。

実存、つまり『現実存在』としての
自己ばかりを求められる人生観を強いられる、
「何でもある世の中」では
その『本質』は軽視されるどころか
ともすればスポイルされてしまう
危うさを持っています。

自分で「本質は何か」を決定、規定しない限り、
『実存に色はつくことはない』のです。

現代社会は、物質的な利便や富のために
旧時代的価値観やドグマを
引き剥がす過程で、
人の世界から「色を奪った」のかもしれません。

まあ、そこまで難しく考えなくとも、
本質が入っていない、ふにゃふにゃなメンタルじゃ、
何でも揃っているスーパーで何かっていいか
分からなくなるぜ、という話。

たかが献立、されど献立。