ウェンディと影

自分を愛するということは、それすなわち、
自分の存在の様々な面をいかに自分の中で
正しく認め、
正しく受け入れ、
正しく肯定し得るか、
それが問われるところに在るものであろうと思うのです。

自分の中の影の部分に蓋をして見えないようにして、
自分が良いと納得できる側面だけを
常に自分の視野の中に置き、そのように振る舞うだけでは
決して、自分を愛せているとは言えない。
というより、愛すべき対象が偏っている限り
永遠に「愛せないそれ」は
まさしく、ウェンディの部屋に置き忘れた
ピーターパンの影。

そもそも、心を持った人にとって
「愛すること」というのは、
ごく自然に身についている
「本能」なのです。

これは健全な精神とそれを育む健全な環境があれば
おそらく、自ずと獲得していく能力なのでしょうが、
世の中、社会構造、人間関係、あらゆるものが
飽和して複雑になっていくにつれて、
「愛すること」とそれを「育てること」自体に
能力が必要になってしまったのでしょう。

社会が複雑になるのに比例して
「愛すること」に要求される難度は高くなるのです。

「愛を学ぶ」という点において、
今、この現代社会で学ぶことのできる愛というのは、
「シンプルで本能的な基本的かつ初歩的な愛」を
幼稚園レベルのものとするなら、
ともすれば大学の修士課程レベルの難問なのかもしれません。

いずれにしろ、
そこまで愛が難問になってしまうその根底には
「影」を過剰かつ必要以上に「悪」と断じることで、
幼少の頃から早々に
引き剥がしてしまうことで、
常に自分の中にある
「ポジティブな半身」のみが
真実の自分でなければならないという幻想が
心理的に刷り込まれてしまうことにあるのかもしれません。

実のところ「真実の愛」が視座からは、
「悪」は「悪」という意味を失い、
日の当たる場所の足元には
必ずぶら下がっているものである以外に
何ものでもないことが見えてくるはずなのです。
まして、決して
「引き剥がすべき汚点」ではないのです。

「影」はしっかり自分に縫い付けて
その総和が自分であるという認識こそが
「真の意味で自分を愛せている状態」であり、
「影」と対峙し受け入れる決意することは
まさしく
『ウェンディの決意』でもあるのでしょう。

よく、人は他者の中に
自分の影を見ると言われますが、
やはり「影の役割」を
人任せにしているうちはやはりきっと
精神を持つ人としては「子供」なのだろうと思えます。

このプロセスを通過しないまま、
つまり「影を縫い合わせない」まま
社会的に大人になり、
そのような人たちが集団を形成する世の中には、
きっと
「赦しがたい嫌いな奴」が
破裂するほどに蔓延し、
漠然と「幼い社会」がそこに出来上がるのです。
そこは影を引き剥がしてでも
大人になることを拒む世界。
つまりネバーランドなのでしょう。

影を切り離して外的世界を冒険しているうちは
いつまでたっても大人にはなれないのです。

実は今の現代社会というのは、
『暗に人を大人に刺せない』社会でもあるのです。

これからの時代を
成熟した善きものにするには
これまでに人間が分断してきた
あらゆる価値や認識の両極を
縫い合わせていく作業が必要になるでしょう。

難しいことのように聞こえますが、
何の事は無い。
自分の中の「実体」と「影」を
縫い合わせるだけなのです。

さしあたってウェンディは
「自分自身」なのか、
あるいは「愛すべき人」なのかは
それは人それでしょうが、
幾多の旅の最後にその影を縫い合わせて
「愛のかたち」は一つ完成し、
次の愛への探求が始まるのだと思います。