忘れる権利、思い出す権利

忘れた記憶を薬で回復させる実験に成功 東大など世界初 – ライブドアニュース
より

この記事について思ったこと。

要は、記憶を回復させる薬が
できるかもしれないという話で、
このニュースが出てから
すでに倫理的な側面や
社会システムとのすり合わせの面だとか、
多くの議論がなされているようです。

アカデミックな論議や言説を僕には
展開することはできませんが、
このニュース、話題について
根本の部分で、一つだけ
押さえておかなければならない
ポイントがあると思うのです。

それは、
『記憶を維持できることと、QOL(生活の質)』
とは必ずしも、等価ではない、ということ。

「記憶回復薬」として
さらに研究を進めて、やがて商品化させ、
そのうちは「ジェネリック」もありますよ、
くらいに成熟させていくことには
なんら問題はありません。

ただ、こうした薬(完成したとして)を
「さあ、記憶が戻ってきて生活の質が上がるから
これを飲みなさい」
となるのは、
完全なる押し付けの治療になりうるのではないか、と。

それこそ、極端なケースかもしれませんが、
記憶が回復することによって
過去に封印、あるいは抑圧してきた
トラウマまでも蘇ってきたらどうでしょう。

せっかく忘れかけてきた心の傷、
それが深いものであったりしたら。
過去のいじめや暴力、
あるいは
泣く泣く堕胎させた記憶さえ戻ってくるかもしれない。

そして高齢になって、そういう薬を服用することになって、
老いた身に、ようやく薄らいできた
トラウマやスティグマを
再び負わせることになる可能性や、
それによっていかなるケア、つまり
忘れたままでいる状態だけがケアの対象ではなく
思い出してまった時にもケアが必要とされる
質の問題だと思うのです。

こういう薬は売れそうだからどんどん売ってと
なってしまう前に、
「使い道」については
よくよく議論されるべきだと思えます。

そもそも、記憶というものは
甘いのも、酸っぱいのも、
辛いのも、苦いのもひっくるめて、
あるいは、大抵は
それらが無二に混ざり合って残るものですから、
そういう医療に金をつぎ込んで記憶を回復し、
齡100歳にも届こうかという年頃に至って
過去の過ちを気に病みすぎ、
カルト宗教に身ぐるみ剥がされながらも
未だ身体は健康で人生は汲汲。

これは本当に健康な老後と言えるのでしょうか。
まして、それが理由で
自らの命を絶った、となっては
本末転倒どころか、
人生の延長戦で
わざわざ行かなくてもいい
地獄に行くようなものでしょう。

以前、
『無病息災は人にとって荷が重い』
こんな記事の中でも似たようなことは書いたのですが、
健康に長生きをする、ということは
その生の長さに比例して
「生きる苦しみ」も見えてくるわけで、
そうした苦しみと向き合う必要があるということに
同意しつつ、長寿を果たして肯定しうるのだろうか。

延命や、記憶の回復という技術は
この点において、
今の一般的にな人の人生観や生命観と、
あまり相性が良くないというか、
不整合な面が多く見受けられる気がするのです。
これは人の叡智で解決されるべき矛盾である気がします。

人間というものはやはり、
生まれ、成人し、老いて病み、忘れ去って死んでいく。
これが最も自然な生命のサイクルである気がします。

しかし、この従来のサイクルを超えて
新しいフェイズの中で人を営むというのであれば、
人はこういう世界を生きるための
新しい人生観を模索する必要があるかもしれません。

何もかもが永遠に続き、消えない世界。

人が今、そんな世界を急場凌ぎで作っても
そこを生きる人々は
必ずしも幸福になるとは限らないのです。

だいたい、
QOL(生活の質)というものは
客観的に他者から評価されるべきものではなく、
それどころか
自分の主観による評価「のみ」でさえあるのだから、
将来もし、そうした記憶を蘇らせる薬を差し出された時、
その一粒を飲むことで
QOLは変化するでしょうが、
果たして「自分にとって良くなる」ことなのか、
そこを考えざるを得なくなってくるかもしません。