生き死にのアート

洋の東西を問わず世の中には、
若くして格好良く死んでいくアーティストというのが
結構いるものです。

僕自身、若い頃というのは
「アーティスティックな早死に」
というものに、非常に憧れていた節もあります。

だいたい、デカダンな思考を持つ人間というのは、
往々にして死に対して
特有の美学のようなものを抱いていたりするものなのです。

以前、デヴィッド・ボウイが亡くなった時に
僕もこのブログで、
「彼は死に様さえもパフォーマンスのように見える」
というような趣旨のことを書いた覚えがあります。

「死」さえも作品であるとして考えれば、
それ、つまり、「死」を
いかに、より美しいものとして完成させられるか、
という問いの一つの回答として、
(デヴィッド・ボウイは早死にではないですが)
「アーティスティックな早死に」は
十分に肯定されうるものなのだと。

しかしです。

まあ、
そういうのを成立させることができる人というのは、
実際に広く影響を与えることのできる
オピニオンであるわけで、
僕のような何の影響力も持たない
全く無名である人間にとって
上述するようなところの
「アーティスティックな早死に」など
どだい不可能なものなのです。
しかもその上、

『今現在もうだつも上がらず生きながらえ、
今こうしている瞬間も、確実に老いていっている』

この現実と、叶わぬ理想と、
概念のみに留まってしまっている美学とのギャップを
抱えて生きるということは、
まさしく、常に喉元に刃物を突きつけながら
生活しているに等しい、ストレスフルな生き方なのでしょう。

自分の場合はミュージシャンですから、
自分から紡ぎ出される音楽というものを
人生において貫徹する、一種の使命感さえ持っているわけで、
これは僕自身の心臓が脈を打っている限り
僕の中では不変である証拠でもあります。

それなのに
「アーティスティックな早死に」に
憧れるのは、いささかの矛盾を抱えてはしないか、
ふと疑問に感じたのです。

生涯を賭してと言いながら、
その生涯を途中で離脱することへの矛盾。

確かに、そういう生涯の終え方は
センセーショナルではあるのですが、
前述のように、
それを僕がしたところで
一切、センセーショナルではなく、
それどころか、
滑稽さや愚かしさしか残らないのです。

ならば、生涯、作品を作り、残すという営みは
生きている限り続けなければならないし、
それが自分の人生の天命であると
確信するほどに、
自分で勝手に、そこから離脱することは
その信念に反することではないのだろうか、と。

「生涯を通して」と言いつつ
その人生を自分の勝手で幕を引こうとするのは、
一切をもって何ものも、その生涯を貫いていない。

つまり、簡単に言うなら、
『お前は一生涯、音楽を作り続けるんだろ?
だったら、勝手に生を散華して
そこから離脱しようと考えるな。
生き恥を晒してでも歌い続けろ』

それが生涯を賭して一つの物事を
「やりきる」と言うことなのではないか、と。

生きて、生き抜いて歌い続けろ。
作品を作り続けろ。
究極的にこれをできる人間は多くはありません。

ほとんど9割がたの人たちは、
生活できないし、だとか
酷い場合は、飽きちゃったし、だとか、
そう言うくだらない理由で
都合よく信念を曲げ、
さもそれが正当な生き方であるかのように納得して
一生を終えます。

続けてきたことを諦め、
新しく、生涯の営みと呼べるような
別の信念を持つことができる人は、
それもまた賛美に値する決断として評価できるでしょう。

けれど、それさえ出来ない
信念を待たない「眠ったままの人」たちはそうではない。

最終的に、アーティストとして
この生を全うしなかった人たちなのであり、
また「何者としても生を全う出来なかった人たち」なのです。

そして、自ら死にゆく人でさえ、
そう言うほとんどに人たちと同様に
単なる「途中でやめちゃった人」に過ぎないのです。

作品づくりのために
生涯を使い切った人と言うには程遠い人たち。

天寿を全うするとか、
早死にだとか、
そう言うのは単なるタイミングの問題で、
決して自分で勝手にコントロールできるものではありません。

そのタイミングが来た時、
「この人は一生、アーティストだったよね」と
評価されたいのであれば、
表現し続けながら、生きなければいけない。
「かつて表現していた」ではいけない。

生きて生き抜いて
作品を形にすることのできる道具たる
その「身体」が機能を停止するその時まで、
作品を作らなくてはならない。
歌わなくてはならない。
語らなくてはならない。

落ちぶれて、
嘲笑され、
見下され、
忌み嫌われてさえもなお、
自分の中にある「それ」を
己の人生の中で
『生きて吐き続けろ』


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