優しさってなんだ?!

俗にいう「良い事」の話。

それは、どんな「良い事」に当てはめてもいいのですが、
例えば「優しい人」という概念があったとして、
人はそれを身につけるべき品格として理解し、
そうであろうと努めるのです。

そして、それは身につけるべき目標、
つまりゴールであるのなら
「優しい人になる」という完成形は
「優しい人」そのものという事ができます。

けれど、そのようなものは
所詮、理屈による理想論であって、
常識的に最低限の謙虚な心を
持ち合わせているのなら、
「常日頃、自分は優しい人間でいられているだろうか」と
自問自答したりするものです。

そして、謙虚に自問自答と葛藤を繰り返しているうちは、
その目標、ゴールたる「優しさを身につけた人」は
永遠に未完成なのでしょう。

永遠に未完成な良俗。善性。
と同時に、完成してはいけない概念なのかもしれません。
なぜなら、未完であることに
その定義の本質があるのだから。

もう少し踏み込んで言い表すなら、
未完であること「そのもの」が
その性質を定義するところのものであるのだから。

上述の「優しい人」に照らして例えるなら、
「優しい人」というのは、
「優しさを完全に身につけた人」のことを言うのではなく、
「優しさを選び取る意思のある人」のことを言うのだろう
と言うこと。

もし仮に、優しさを完全に身につけた人がいたとして、
「自分は優しさについて、全てを身につけた」から
優しくあることをやめてしまったのであれば、
その人はもう「優しい人」ではないのです。

ゆえに繰り返すように「優しさを完成させている人」など
存在しないのです。

常に優しさを選び取り続けると言うことは、
換言すれば
常に比較される「そうでない選択肢」を
認識していると言うことであり、
そこから生ずる迷いや葛藤の中において
「それでも優しさを」と
宣言できる心の強さをも問われるものなのでしょう。

つまり、
真の意味において「優しい人」と言うのは、
何においても優しい心でありたいと切望すると同時に、
かくも残酷で非道な心の有り様もまた理解できていて、
それでも常に「優しい選択の結果のために」と
振舞うことのできる人格のことを指すのだと。

その意思こそが「優しさ」であり、
また、あらゆる善性にも
同じように言えることなのだと思います。

「もしかしたら、こんな自分は
悪人なのではないか?」
と自省する人は、
誰であれ、概ね良心の人なのだとおもます。

世の中には、
自分について、これっぽっちも省みない人
と言うのはごまんといるし、
多少、内省できても、
心の闇を覗いて、魅入られて、
「善き選択」を選び取る強さを持っていない人も多いのです。

それを思えば、
己の闇や弱さを知りつつ、
常に善き結果のために
己の人生を行為できる人というのは、
今の世の中にあって
もっとも尊く、賞賛されるべき精神なのかもしれません。

善性は、善性でありたいと願う人の眼前に
必ずあるものであり、
それが視界に見えているうちは、
どんな闇を抱えていようが
「善性を見、それを内に全うする人」なのだと思うのです。