自尊心は自分だけのものじゃない

誰しもが自尊心を持っています。

「誰しも」であるのだから、
それは同時に、自分と相対するところの
他者もまた、自分と等価のそれを
間違いなく持っているのです。

至極当たり前のことなのですが、
人は日常の生活の中で
往々にそれを忘れ、あるいは自覚せずに生きています。

わかりやすく言うなら、
自分は自分のことを尊ぶけれど、
その時というのは意外と
自分にとって他者は
反比例して蔑ろにされがち、ということ。
誰もが同じように「自愛」の心を持っているのです。

自尊心より、さらに大きな枠の
概念であるところの、
本当の意味での「自愛」というものは、
それ単独では成立しないのだと思います。

「自愛」と「他愛」
この相反する発露は
いわば、表裏一体、二つで一つのような概念で、
どちらかを尊ぶ時、
もう一方のどちらかは尊ばれるし、
逆に蔑ろにされれば
もう一方もまた然り。
どちらかがどちらかを屈服され、服従させることなど
できはしないのです。

この両者はその平衡を保ってこそ
健康な精神と自己認識が得られるのでしょう。

故に、どちらかに偏ると
心のバランスは崩れて
やがては壊れるのだと思います。

自尊心もまたそう。

自分と他者とが全くの同価値で
物事を尊ぶことができた時に
本当の自尊心はそこにあるのでしょうが、
自分と他人の間に
何かしらの分け隔てを抱えて尊ぶのなら、
そこに存在するギャップを埋めるために
「奪うこと」をしなければならなくなる。

それは人から奪うことなのかもしれないし、
自分から自らを奪うことなのかもしれない。

いずれにしてもそれらは、
自他を愛する営みの未熟さゆえに起こる
悲劇なのだと思えます。

世の中、
「自分だけ」あるいは「他人だけ」という考えは
あってはならない世界の歪みを生みます。

「自分」も「他人」も限りなく同じでなくてはならないけれど、
どこまでいっても最後の最後で相入れない。
その事実を肯定した時、
「自分」はどこまでも「他人」になれるし、
逆に「他人」はいつだって「自分」のようなものなのだとわかる。

どちらかがどちらかを蔑ろにしたり、
まして排除することなど、
「全体の破滅」でしかないのです。

けれど悲しいかな、人というものは
その『人と人との間』に無駄な差をつけて、
足りない部分は、誰かからとってきて
自尊心、つまるところ「自愛」だけを満たそうとします。

その時「他者の自尊心」は奪われます。
他者の自尊心の不足を作ったのが自分であるのなら、
それはすなわち
「自分の自尊心の不在」でもあるのです。

そうだからといって、
世の中、みんながみんなそれをやり始めたら、
互いに喰い合うばかりの世界になってしまうというのに。

愛のバランスを自他共に釣り合わせ、
「自分」と「他者」は
等しく互いを助け、補い合う存在として認識しながら生きることが
結局、一番楽だし、健全なのだと思うのだけれど、
人はやっぱり、それでも否定するのでしょうか。

愛を。