ロック論2018

現在発売中の僕のサードアルバムは、
僕が2000年代に作った作品を
今一度、録音し直してまとめたものです。

別の記事でも書いたことはあるのですが、
この当時に作った楽曲というのは
『極限まで透明感のあるロック』
というものに、とにかく、
こだわって作られました。

もともと、
ロックという音楽が
カントリーやブルースの流れをくむ音楽であることからくる
「泥臭さ」や「雑然さ」が
個人的にはあまり好きではなかった、
ということが、「透明感」にこだわる
最大の要因だったのかもしれません。

で、行き着いたところは
自分なりの
「ロックという概念を壊して無にする」
という境地だったような気がします。

おそらく、僕自身、過去10年は
そういう思いで曲を作っていました。

けれどやはり、これでは限界がくる。

どういう限界かというと、例えば、
カレー(ライス)屋さんが
カレーライスをメニューから下げて
カレーパンだとか
カレーピラフとか、他のカレー味の惣菜だとか、
そういうものしか扱わなくなるような無理さが
そこにはあったのです。
カレー屋がカレーの看板を下げたら
カレー屋じゃないじゃん、と。

まあ、そのようなもの。

で、結局行き着いたのが、
ロックという音楽を
ロックの本質を否定しながら
「ロック」として歌えない、という事。

ロックという音楽は、
やはり「生命力」なんですよ。
良くも悪くも
『ロックは生きる力の顕れ』なのだという事。

明るく快活なロックは
明るく快活な生命の顕現だし、
低く暗く、重いロックは、
やはり低くて暗く重い生命。

どちらでも良いのだと思うのです。

そこに生命力が宿っていれば、
それをロックというのだろうから、と。

メンタリティがロックな人というものは
例えば僕みたいに(笑)
なんでも噛み付いたり、否定したりしがちですが、
あらゆるものを否定していくと、
最終的に本質さえも否定しようとしてしまうのは
作り手としては重要な学びなのかもしれませんが、
やはりあまり褒められたことではないというか、
一言で言うなら、不健康なのだろうな。と。

音楽をやっている人の中には、
結構僕みたいに考える人は多いと思います。
「むしろ、ロックを否定したいね(悦)」みたいな。

そこで本当にロックを捨てて
カレーパンやドライカレーがいいと言える人は
さほどロックを愛していないかもしれない。
と言うか、ファッションの一部にすぎないかもしれない。
けれど、
カレーを愛する人が、
カレーライス(ナンでもいいけど)の置いていない店を
カレー屋とは呼ばないよね。

そこに気づいたのです。

僕などは、オッサンなので
今の若い人のように
「成熟期の日本の商業音楽」の洗礼は受けておらず、
また、実際の話として
ロックという音楽がリアルタイムで
一番輝いていた時期に
多感な青春時代を送った世代です。

そんな時代に吸収したものを
全部否定しても、
アイデンティティ自体がそのものになっているので、
否定のしようがないのだと。

これからは
もっともっと、全てを肯定するような
ロックを歌っていきたいと考えています。
全否定したら、あとはもう全肯定するしかない。

やはり、受け入れ、肯定し、認めること、
そういうものはものすごく大切なことだと思えます。
ましてそれが
「生命力そのものの顕れ」である音楽であるのなら
なおさらに。

まあきっと、
僕が歳をとって丸くなったんだろうな(笑)

ロックというものは、もしかすると
丸くなるほどに
尖っていくもののような気がします。


コメントを残す