宝塚に男子が入学しようとして同じことが言えるのか?

かなり、みっともないタイミングの記事になりますが(笑)、
先日の土俵が女人禁制とかいうあれの話。

僕として思うのは、
女人禁制とか時代錯誤だとか言うけれど、
じゃあ仮に、
宝塚歌劇団に男子が入学してきても、
同じ事が言えるか、と思えたりもします。

もちろん、宝塚歌劇団の生徒が
急病で倒れてどうのと言う次元では
その限りではないのですが、
今回、言わんとしていることの論旨は
そこにあるのではなく、あくまで
『男女性の定義と扱い』について、
と言う点にあります。

少なくとも日本では意外と
ごく普遍的な通念としての
コンセンサスにおける男女の定義について、
ほぼ、無定義のまま社会が回ってしまっていたりします。

土俵にしても、宝塚にしても、
はたまた公衆便所にしても、
合コンの割り勘にしても(笑)、
「男と女」を分ける以上、
そこに根拠足り得、基底となる定義がなければ
その性差に格差が生じるのは当然のことと思えます。

誰しもが「自分が得をしようとする」から。

確かに理屈っぽいのですが、
ここに貫通される共通の認識が乏しいから、
人命に関わる非常事態にあっても
「しきたり」という呪縛に
思考が止められてしまうのだと思うのです。

男とは?
女とは?

単純に肉体的な差異だけならば
誰でも区別はつくでしょう。

けれど実際はそうではありません。

男性の肉体に女性の心が宿っていることもありますし、
その逆も然り。

現代のような、
まだ男性論理主体で成り立っている社会に出て、
そこに上手に適応して普通に生活が成り立っている、
いわゆるキャリア志向の女性は、
その社会的な立場において、
本当に女性と言えるのか?

そして、専業主夫は男性なのか?

人間の心は、思う以上に
そのひとりの心の中に
男性と女性が入り混じっているものです。

上述のように、実際の見かけでは
男性が女性の役割をすることもあるし、
女性が男性と同様の責任を担うことだってある。
それが本来の「人間の本質」だと思うのです。

つまり、人の精神は本質的に
『性別はなく、また両性を具有している』

そういう、まだらな二元性があるところに、
単純に肉体的な性のみで
二元的に切り分けること自体が
非常にナンセンスだと思うし、
それは生命というものを
雑に捉えすぎなのだとも思えます。

そういうナンセンスな根拠をもとにした
しきたりだの、規則だのという
より低い次元の概念を取ってつけたところで、
それが万人が納得するところの整合性を
得ることなど不可能なのかもしれない。

人は、その時の状況に応じて
必要ならば男性にも女性にもなれる。
そして、そのことから導き出される「振る舞い」と言うのは、
単なる結果論に過ぎないのです。
間違っても、「振る舞い」が先に立つものではありません。

故にもちろん、肉体的な質についても同様で、
肉体的な性別を先立たせて考えれば
色々と矛盾も起こります。

「今、この物理的な状況下」において、
己の心が「相対的に」
男性的な役割を受け持つのか、
女性的なそれを担うのか、
男女の性差はそこにこそ本義があると思うのです。
いわば、サルトルの言うところの
「実存は本質に先立つ」(これは表裏一体の概念だと考えますが)
と言う概念に当てはめることのできる構造です。
そして、それはなおかつ
(表裏一体でありながらも)非可逆的なもの。

そう考えると、
単純に肉体的な性別(本質)だけをとって、
集団の中においての役割としての性別(実存)が
体系化、制度化されたこの、今の社会において、
「人間の内的、潜在的な性別」と言うものが
ほとんど考慮されていない、
サルトル流に言うところの概念に逆行するような
本質(肉体)が先立つ考え、
というか、「男以外は人間に非ず」という
原始的な価値観と地続きになって運営されているこの社会は、
明らかな根本的な欠陥を正さない限り、
ジェンダーにまつわるあれこれの問題が
なくなることはないのでしょう。

人の精神というのは、
根本に心という男女未分化の「主体」があって、
そこに男女という「相対的な立場」が生まれ、
その役割を全うすることで
その「個人としての性」は決まると思うのです。

ゆえに、立場上(自治体の長であるとか)が
女性であっても土俵に上がることに、
「しきたり」としても矛盾はないし、
宝塚歌劇団の入学資格に男性を除外する根拠を突き詰めるなら、
残念ながら宝塚歌劇団側の方が
ロジックとして弱いでしょう。

お腹を壊したおっさんがトイレに駆け込むと、
男子トイレが空いていない。
それでやむなく、女性トイレで用を済ませることは
許容されるはずだし、
合コンの飲み代で女子は1000円で良い理由も否定される(笑)

でもなぜ、これらのことがまかり通るかといえば、
結局、「得であるとか、面倒臭くないから」そのものであって、
故に、多くの人が
ジェンダーの平等化について深く考える必要を
持たないのだと思います。
むしろこの不均衡なシステムの中で
どう振る舞えば得をするのかを考える方が
「俗人」の人生としては有効なものなのでしょう。

しかし、本当に真剣かつ真摯に、
性差別の問題を解決しようとするのなら、
一度この現行の社会を解体して、
その基礎の部分に正しい概念を
埋め込んでいく必要があると感じます。

逆に、性差別の問題を論じたところで、
「社会のシステムの基礎自体に欠陥があるから」
この一言で結論づけされてしまう
質のものなのかもしれません。

そしてそもそも、
そうした欠陥や矛盾を抱えたシステムの中で
だましだまし生きていくことを強いられるのは、
それもまた「人の無知」がゆえの結果であるのでしょう。