何故フレスコ画はヒッデーことになるのか

何年か前にニュースになった話で、
昔のカトリックとかのフレスコ画の劣化を修復したら
なんだかとてつもなく珍妙な「別物」になった、
というのがありました。
その後、別件でもう一つか二つくらい
同じようなニュースが出ていた記憶があります。

これは僕はこの悲劇の要因について
全てが修復する人の技術不足にあるとは
思えないのです。

技術以前に決定的に欠落しているのは、
思うに
「神様という概念の認知の深さ」、
簡単にいうと
『そこに描かれている神様を知らない』
のだろうと思うのです。

人は「ものを描くとき」、
自分の知っているものしか
描くことはできないし、
それは知らないものを描け
と言われているのですから、
たとえ無理に描こうとしてところで
それが的外れなものであっても
無理はないでしょう。

フレスコ画がヒッデーことになって
ざわつく人にとっては
少なくとも、以前に描いた人のものの方が
「神に近かった」のでしょう。
(実際のニュースでは神様の絵ではなかったですが)

それは「絵」だけの話ではなく、
「自分のこの目に見える世界」
すべてに言えることだと思えます。

もちろん、ここでいう「自分」というのは
「自己」のことではなく
「認識の主体」という意味での
「自分」なのですが、
それら、ここにあるものはすべて
「自分(認識の主体)の知っているもの」なのです。
そこに美しいものがないとすれば、
それは「自分が美しいもの」を知らないのでしょう。
あるいは知っていたのだとしても、
忘れてしまっているのだとか、
気がつかないだとか。

醜くなっていると感じたとき、
そこにあるのは、
かつてはそれより美しかったけれど
今は醜くなった自分なのです。

もうそれは、
修復する人の感性によるもの以外の
何ものでもないような気がしますが、
かつて美しかった世界が
今、なんだかヒッデーことになっていたとしたら、
それはそれで悲しいな、と。

感性というものは非常に大切なものだなと思うのです。


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