ニーチェを半分終えて思う

ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の
上巻を読み終えました。
まだ全てを読み終えていない段階で
寸評するのもいかがなものか
と言う声も聞こえてきそうですが、
あえて書かせて頂きます。
以前からつぶやいていた事ではありますが、
どうもこの本は
上から目線が鼻につきます。
言いたい事はすごくよく分かるし、
また共感する思想や概念も随所に見受けられます。
ただ、それを高い所から吠えるように
断言されるとさすがに
こちらとしては、いささかのアイロニーを
禁じ得ないのです。
まず、ごく一般的な思考をもって
ポピュリズムに乗り、
ごく一般的に過ごしているところの所謂、
一般大衆を「畜群」と称し、
悟った人と言う立ち位置の主人公
「ツァラトゥストラ」が隠遁生活を送っていた
山から降りて大衆と交わろうとする行為を
「没落」という名で規定する冒頭部分で
僕は正直、嫌悪感を覚えましたね。
こう言う物言いが
選民意識を助長し、
無益な対立構造の苗床になるんですよね。
かのヒトラー然り。
人は来るべき革新を経て
新たなる人に成れる。
そんなの幻想ですよ。
そもそもニーチェの唱えた「超人」の概念だって
何も「人」を超えてなんていないです。
100年前、ヨーロッパ、キリスト教圏文化の中にあって、
宗教的観念や民族意識を超越した生き方を
遂行出来たそれ、
つまり超人は超人たり得たかもしれませんが、
個人の自由意思が尊重された文化の土壌に
生まれながら育ち、生きてきた現代人なら
今更言わずもがなな人生観の一つである、
それだけのものなんですよね。
だって、自由な生き方をしている現代人を見て、
「あ、この人は人を超越してるな」
なんて思うでしょうか。
まあ、逆に考えれば
そうした自由な生き方が出来る現代人こそが、
ニーチェの示唆するところの
「超人」の時代の到来とも言えると考えれば
辻褄も合うのですが。
ただ、革新は「個」の元には訪れない。
革新は世情に導かれながら
全体の中で進んでいくものだと思うのです。
革新を先導するもの、つまり
革命家と呼ばれる人間は
決して必ずしも
蛹から孵った蝶ではないのではないでしょうか。
時代の流れを俯瞰すれば所詮
そうしたイノベーターも
春の木の芽時に孵る蝶たちの中でも
早い時期に孵った、
ただの「いち個体」に過ぎないと僕は考えます。
革新や進化なんていうものは
はじめにディテールありきで起こるものではないでしょう。
イノベーションは世情や
そこで巻き起こる事象の中で
伝播していくものであり、
イノベーターもまたそれを引き起こす
トリガーでこそあれ、
革新を果たした「超人」ではない。
人いち個人が「意図して」
世界を変えられる訳がないです。
世界が変わるのは結局のところ
ニーチェが規定した「畜群」が
それを是認した時なんですよね。
だから、ある日突然「超人」などと言う
新たな人が自然発生する訳もない、
そう思うんです。
とまあ、「ツァラトゥストラは~」の
感想からは大きく道が逸れてしまいましたが、
とりあえずそれが
この本の前半を読み終えて感じた事です。