持病を持って生きるって大変だぜ、やっぱりさ

幸運なことに、
五体満足、大した病気一つしたことのない人にとって、
「健康を害われた状態」というものを想像できないのは
致し方のないことだと思います。
それこそ、人が死後の世界を
「論理的、理性的にあり得る現実」として
理解できないのと同じで。

僕自身、治らない持病を抱えてはや四半世紀となりますが、
振り返ってみて、そうした病気になって
何が大変だったかと考えると、
病気の症状もさることながら結局、
周囲の無理解や偏見に泣かされたことの方が
よっぽどしんどかったりします。

患者である当人が、病気に人生を振り回される大変さの只中にあって
健康であることが「ごく当たり前」である人たちの無神経な、
無責任だだの、気まぐれだだの、使えないだの、
そういう目で見て、あるいはそんな言葉を投げつけられ、
敬遠され厄介払いされる経験は
少なくとも僕にとっては、しょっちゅうです。

人はレトリックとして
弱者に優しい社会であれとは言うけれど、
それはあくまで
自分とは関わりのない世界でそうあれと
無責任に言っているだけで、
いざ、そうした持病や障害を持つ人たちが
自分の人生の中で違和感なく関わりあえるかとなると、
誰しもがそれを面倒なこととして
関わろうとはしません。

これは単なる僕の人生のぼやきというのではなく、
この社会の中で
健常者と障害や病気を持つ人とが
関係性を築くことの難しさを
象徴していることなのだろうと思うのです。

持病を抱えて生きることというのは
その向き合い方も含めて
本当に大変なことだと思います。

先頃、総理大臣が持病で辞任を表明したことに対する
人の、いくつかの意見もそうですが、
やはり無責任であることは事実だと思います。
けれど、病気が再燃して辞めることが無責任なのではなく、
そもそも、そういういつ再発するかわからない病気を抱えて
国のリーダーのポストに就こうとすること自体が
無責任なのだろうと思えます。
しかし、これは正論ではあるのですが
あくまで「健康な人間」の視野から見える世界でしかない。

ならば、
健康でない人は、あるいは障害のある人は、
社会の中で責任を果たせないのなら
健常者の社会の中に入ってくるべきではない、
そういう考えに行き着く世界であるとなれば
それは優生思想の入り口でもあるのです。
いくら法律でそれを抑止しようが、
人の目というのは、それを否定できるほど
フラットには見られないのです。

また、事実として
身体的、あるいは精神的にも障害があっても
「健常者」と同じ職務を全うできるかと言えば、
必ずしもそうはいかない現実だってあります。

持病や障害を抱えて
思い職務を遂行することは
ある人にとっては「大きなチャレンジ」かもしれない。
けれど、それを全うできる人というのは
本当にごく限られた、幸運な条件がもともとあったうえでの
一部の人たちだけで、
誰もにその「大きなチャレンジ」を
強いるようなことがあってもいけない。

僕自身、今これを書いていて
すごく支離滅裂でまとまりきれないなと感じるのですが、
ものまとまりの無さこそが、
健康な人と、そうでない人とが
一つの社会の中で共生して生きていくことの
難しさの根っこなのではないかと思えるのです。

健常者は「ハンディキャップのある世界」を
知識として知り得ても、
経験則でその世界を理解することはできないし、
また「ハンディキャップのある世界の住人」にしてみても、
個々人それぞれのハンディキャップの度合いの違いもあれば、
前述したように、ハンディキャップへの
向き合い方の差異もあるのです。

この隔たりというのは、
たとえ(健康であることを前提として)
知識や経験の豊富な
ベテランの医療従事者や介助者であっても
埋められない溝でもあると思います。

本当は、ここを誰しもが平らに理解できる世の中になるのが
一番、理想であり、手っ取り早いのでしょうが、
そんな世界など、きっと千年経っても実現しないでしょう。
そして、千年後だっておそらく
健常者主体の社会のまま、変わりはしないでしょう。

結局、病を抱えたり、障害を抱えたりする人が
それを抱えながらもどう生きるか。
そうしたハンディキャップを
抱えるところの自分が主役である人生を
どう生きるのか、
それを健康な人よりも、余分に考えていかなくては
ならない運命を背負ってしまったのかもしれません。

そして、医療関係の人や介助をしてくれる人は
「良く生きる」助けはしてくれても、
極論で言ってしまえば、解決はしてくれないのです。
『決して、人生を良くはしてくれはしない』のです。
当たり前ですが。

人生を良くすることができるのは
病や障害と向き合っている
誰でもなく、「自分」本人なのですから。

最後までうまく纏めることはできなかったけれど、
まあ、人の「人生を良くする権利」の芽を摘むような
そんな人たちが大手を振る社会であってはいけないとは思います。