言葉を正せ

今の時代、今の社会というのは、
ハイテク機器を身につけた
原始人の社会、時代であると感じます。

ハイテク機器自体は
実に精密で複雑なそれであるのにもかかわらず、
それを使う人間は、
その機器を使って、実に貧相なことしか
していないのです。

機械が高性能であるために、
人同士のコミニュケーションですら
その大半を機械に任せてしまい、
今、人間は
言語を駆使するという営みさえも
退化の道を辿りはじめています。

言葉というものは、良くも悪くも
使う人の心や精神性を
如実に映し出す鏡のようなものだと思えます。

言葉の使い方、話し方で
その人の人となりというのは
割とはっきりと知れてしまうものなのです。
よほどのプロの詐欺師でもない限り、
それは決して嘘のつくことのできないものなのです。

そういう質のものを扱う人間が
集団で生活をする社会では、
そこを生きる人たちの言葉を知れば、
その社会の質まで分かるのです。

社会が乱れるより前に、
まず、そこに住む人たちの
言葉が必ず乱れます。

程よく乱れているうちは
かえってそれが豊かな感性を生む
苗床にもなるのでしょうが、
乱れたままに放っておくと
やがて言葉は痩せて乏しいものになっていきます。

言葉が痩せるということは、
それすなわち、ボキャブラリーが
貧困になるという意味です。

語彙が衰えると、知性が衰え、
やがて感性や精神性まで衰えていきます。

それゆえに、
人は正しい言葉を使うべきなのですが、
ここで言う正しい言葉というのは、
文法的にとか、マナーとして、とか
そういう意味ではなく、
「生きた言葉」を使えるかどうか、ということなのです。

生きた人間からは
生きた言葉が発せられます。
生きていない人間からは
あらゆるものを衰えさせる
死んだ言葉が発せられます。

生きた言葉を使うことができなくなっていく
真の原因というものは、
おそらくインターネットと
それを利用するスマホやパソコンに
あるのだろうと感じます。

いわゆるところの
ITやコンピュータ関連のツールというものは
適度に距離を置いて利用する分には
非常に便利の良い道具になり得るのですが、
依存度が高くなるにつれ
人にとっての害毒となるもののような気がしてなりません。

それはもしかすると、
大半のことを「機械任せ」にしてしまうがゆえに
人が人を営まなくなってしまうからなのでしょう。

人として「営む」必要がなくなれば、
当然、集団の中を生きるための
コミュニケーションも不要になっていくわけで、
そうすれば必然的に
言語の能力も退化してしまうのです。

人が人足りうる条件、定義として
『動物的な欲求、情動と
人間的な理性、秩序とを
繋ぎ、また昇華させるツールとしての言葉』を
利用できるか否かが問われると思うのです。

これは人であるための、いわば背骨のようなもので、
ここが破壊されると、
人は人から猿に逆戻りしてしまうのです。
いや、猿どころかきっと
犬や猫よりも劣る凶暴な動物へと戻ってしまうのです。

それをさせている一端を担っているのが
IT機器のような気がします。

聖書ではないですが、
「はじめに言葉ありき」
これは非常に重要なことなのです。

心を持つ存在と獣との違いとは
まさに、これができるかどうかの違いだからです。

今の世の中では、
より複雑な方程式というパズルを
解くことができる人間が重宝がられますが、
今、人類にとって必要なものは
『人の心に秩序をもたらす言葉』を
生むことができる人間なのではないでしょうか。

これは方程式のように複雑なものではありません。
それどころか、その正反対のシンプルささえ持っています。
なのに人類にとってこれは、何千年たってもまだ遠い。
考えれば考えるほどに遠ざかる質のものだからです。

言葉の質が低い人間が
社会や国を指導する立場になる時代に
突入してしまった今となっては
もう間に合わないかもしれませんが、
それでも、この「良き言葉」を生むことができないと
この先、人間は20年後どころか
10年先でさえ怪しい。
何故なら、「言葉を使えない人たち」が
世界の中心人物となっていくのだから。

間違った道を正すには、
兎にも角にもまず
「言葉を正す」ことから始めないと
全てが悪くなっていきます。
間違いなく。