敗者たれ

極論的に言うなら、
数多くの成功を体験した人より
それに比例して数多くの失敗を経験した人の方が、
明らかに豊かで賢いと思えます。

ここで言うところの
成功と失敗という概念は、
何かしらの技術的な方法論であったり、
世俗的な人生の評価であったり、
あらゆる「成功」あるいは「失敗」に
まつわるところの「成功と失敗」であり、
「虚と実」に帰結するところの
あらゆるものである、とします。

要するに、
あらゆる正しいことと、そうでないもの、
理にかなっているものと、そうでないもの
という意味での「成功と失敗」

この世界というのは、
たとえ、どのような経緯を辿ろうとも
最終的には「正しいもの」に帰結するか、
あるいは、「正しくないもの」は
そこにたどり着く前に瓦解してしまうかの
どちらかなのです。

あらゆるスパンにおいて
最後には「正しいもののみ」が残るのです。

叡智というものが
知識や経験の蓄積であるとするならば、
「正しさのみ」が存在しうる世界において
その叡智を、より多く蓄えようとするのなら
必然的に「正しくないものを知る」より
他に方法はないのです。

いま少し掘り下げるなら、
「正しくないもの」を知り
その正しくないものの中に
正しさを見出すことによって、
「元来の正しさ」は成長、拡張していくものなのです。

正しいと思えるものだけを
内的、あるいは外的に取り入れるだけでは
「全ての正しさ」を得たとは言えないのです。
「既成の正しいという概念」を打破し、
より大きな正しさのある世界へ入っていくには
「正しくないもの」を
「正しいもの」であると再定義していくことでしか
それは実現しないのです。

そう。『次代の芽』というものは
いつなる時も
そうした「正しくないもの」の中に
打ち捨てられているかのように
隠されているものなのです。

故に、
成功体験と等価の
失敗体験を持つ人の方が
より豊かであるのです。

知識としても、概念としても、
そして感覚としても、
正論と邪論をバランスよく
受容できる人生の方が、
より真理に近いのではないか、と。

邪論ばかりを追いかけたところで、
永遠に真理には到達できないし、
正論ばかりを行使しても
それは永遠に「真の正しさ」の戸口に立てない。

人は往々にして
失敗や過ちを忌み嫌い、避けようとしますが、
真の叡智というものは
むしろ「邪論」の中に
含まれているものなのだと思うのです。
そもそも、それを「邪論」と規定しているのは
単なる、自分の認識の思い込みに過ぎないのです。

よりフラットな認識には
「正邪」という二元的なロジックは存在しないのですから、
臆することなく
人の論理上の「正しいと規定されていないもの」のなかに
飛び込んでみるのもいいのではないかと思えます。

「学び」というものは、
それその性質からしても
常に「偽」の中にこそ存在しているのですから。

故に、
臆することなく失敗者たれ。