正論というエゴティズム

人の世における、
あらゆる「議論」という営みそのものを
否定しかねないことではあるのですが、
そうした様々なレベルにおいての
「議論」などで、あたかもそれが
正義でもあるかのように思われるのが
「正論」というもの。

その「正論」というものは
よくよく吟味してみると、
確かに論理的に筋は通っているのでしょうが、
それが正しいかと言われれば
必ずしも、そうとは言えなかったりします。

故に、
「正論」を振りかざして
論議を屈服させようとする圧力には
屈してはならないものなのだと思えます。

上述のように「正論」とは
論理的に矛盾のない、
認識の最小公倍数的な「落とし所」であるのですが、
これは言い換えると思考を停止させて
「自由な発想、発言」を不能にさせる、
言わば、「言葉の羽交い締め」のようなもので、
「正論」を正解と断じることは
決してフェアなことではないのです。

むしろ、その正論について
整合性を根拠に押し付けるのであれば
それはエゴイスティックでありドグマティックな
振る舞いでしかないのでしょう。

人の心や認識というものは、その領域の大半を
矛盾や不整合で占めているものです。
そういう内的なカオスの中に
わずかに点在する整合性を持った概念があり、
そこへと流れていく意識の動きこそが
人の心のダイナミズムであり、
それは決して「正論」の中へ落ちてしまっては
それは、人の心の営みとしては不自然なものなのです。

「正論」というのは
永遠に目標であり、期待値ではあっても、
決して完成させてはいけない
概念なのではないかと思うのです。

なぜなら、
個人としての人、集団や社会としての人々、
それらの実像、真理は常に
カオスであることが実態であるのだから。

たとえ建前は「正論」という整合性の奔流に
呑み込まれる振りをしようとも、
自らの精神性の中心まで
その「正論」のエゴティズムからの圧力に
思考を明け渡してはいけないのです。

「整合」という、
ごく一部で起こる特異な状態、一つを取り上げて、
それで人の思考を奪い、ともすれば操ろうとするのであれば、
「整合」こそは悪でさえあるのです。

世の中、社会を見回して
あたかも正論であるかのように喧伝して
多くの人たちをそこに誘導しようとしている
「何かしら」があるかもしれない、と
ふと思い出した時だけでも良いので
注意を払って観察した方がいいかもしれません。

そういう「見えざる力」は
意外と、そこかしこに潜んでいたりするのです。