『来年の話』にそそのかされるな

「来年の事を言うと鬼が笑う」
なんて言いますが、
これはこれで、なかなか真理であるように思えます。

先の事、つまり
未来予測が有効に機能する期限というものは、
せいぜい1日以内までではないかと。

それより先の事というのは
本当にその時になってみないと分からないもので、
それこそ、将来に起こりうる何かしらについて
思いを巡らすということは、
有限たる人生においては
全くの無駄であり、無意味なのだろうと思えます。

先の事などわからないということは、
未来に対して「無知でいろ」ということではありません。
未来に対するヴィジョンを
不用意に限定してはいけないということなのです。

未来は、永遠に未来であって、
決して「今」にはならないのです。
つまり、その「未来といわれるもの」は
永遠に未然のままの
『未構成の現実のアーキテクチャのひとつに過ぎない』のです。

一般論的に言われるところの「未来や将来」を
語るということは、
未組み立ての製品のひとつの部品だけをとって
それが確定的な実像であると断定するような
不毛な行為であると思えます。

本当に確実に訪れる未来を想定するのであれば、
この宇宙の全存在の振る舞いを
完璧に把握する必要があるのですが、
果たして人間は、そのような事をできるでしょうか。
そう、できません。

『出来もしないことを、
出来ているような気になって、
中途半端な準備をする』

それが、人間の未来予想。

学生の頃には
「将来を見据えて勉強しろ」
などと大人から言われることは
多いのではないでしょうか。

しかし、この言葉を真に受けて
永遠の未然たる将来を「あてにする」癖を
身につけてはいけないのだと思います。

有限である人生を
不確定な未来のために費やすということは
ある意味ギャンブルなのだということを
理解したほうがいいと思うのです。

学生の頃や若い頃の努力と
世界の世情とはは一切リンクしないのですから。

何が何だかよくわからないまま時流に乗って
大きな労力を要さずとも
豊かな人生を築くことができる人たちもいれば、
しっかり努力と準備をしたところで
それがただの泡沫の労力のままで
一生を終えてしまう人もいるのです。
そのように、
人生は本人の努力や才能というものに対して
平等に何かを与えてくれるというような
質のものではないのです。

だからこそ、
「今ここ、この瞬間」という時空を
自分の中にある根拠に乏しい
「未来に対する、浅はかで小さな認識」で
無駄に浪費してはいけないのではないかと思えるのです。

将来、良くあるように、と生きるより、
今、ここを良くあるようにと行動したほうが、
時間が経って結果として振り返ってみたとき、
豊かな方は明らかに後者なのだろうと。
これは机上の理想論というより
純粋な経験則として。

人間はその人生において、
行動し、作用を及ぼすことができるのは
結局「今ここ、この時」しかないのだから、
流動的かつ不確実な世界に
何かしらを積み上げようとするより、
この現実的かつ静的な条件を基礎にして
「今ここ、この時」を拡張していくほうが、
堅牢なものを築くことができる、ということ。

つまり、何が言いたいかというと、
往往にして大人、年長者が
若者に対して
「理想的であるかのような」未来を
朗々と語る時、
それは大人社会という社会体制を統制するための
「スローガン」という性質を
その内奥にひた隠しにしていることを
理解しておいたほうがいい、ということ。

その美化されたスローガンを利用して、
人は「将来」という不確実なものに
幸せを奪われ、
「今の幸福」はあたかも堕落であるかのように扱うから、
結果として人はどんどん貧しく、卑しくなっていくのです。

「概念としての未来」に幸福を預けてしまうことは、
相対的に「今この瞬間の幸福」を失うことになるのです。

まずは「今ここ、この時」を満たさないと、
次に来る「今ここ、この時」も
その次も、そのまた次も、そして遠い未来ですら
永遠に満ちるはずがない、
ということに気づいていない人が多いのです。
だから世の中が逼塞の一途を辿るのです。

会社も、社会も、国家も
決して個人の幸福を保証したりはしません。
むしろ、そうした「集団」を維持するためのエネルギーを
身を粉にして作り出せと要求してくるのが、
「集団」なのです。
集団の利益は、あくまでも
実態のない集団の利益であって、
個人の利益ではないのです。

にもかかわらず、集団は
「輝く将来」という意味不明な概念を
スローガンとして喧伝して、
人がそれぞれ持ち得たはずの
「本当の未来」の所在を隠してしまうのです。

未来のために創意するノウハウより、
今与えられた状況を自分にとって良きものにする
知恵を身につけたほうが、
人はより幸せになれると思うのです。

絵に描いた餅は、所詮絵でしかないのです。
人は、今あるものの中から
いかようにでも、自分で
本物の食べられる餅を生み出すことができるのです。