神々の沈黙 – ジュリアン・ジェインズ

今から3000年前とかの時代に生きていた
僕たちと同じ人類は、
果たして僕たちと同じ精神構造を持っていたのだろうか。

太古の昔を生きた人々は
今を生きる僕たちが意識するところの
「自分」ともう一つ、
「神」という心を持っていたのではないか。

こういう仮説から始まるこの本は
心理学者である著者の論文を本として再編集したものです。

冒頭の仮説などは、確かに僕自身、
第一印象としては荒唐無稽な話のように思えるし、
ともすれば、トンデモ系やオカルトにつながっている
話なのではないかと訝しくも思ったのですが、
どうも、そういうことでなく、
そうした仮説を立証するため
3000年以上も前の人類の遺跡、遺物から
その証拠を突き詰めていくと言った内容。

例えば、太古の人類が残した神話において、
それが編纂、あるいはまとめられた時代が古いほど、
人間と神という存在の距離が近いことが挙げられるのだそう。

神話の中で、神と呼ばれる存在は
普通に人間に話しかけてきて
あれしろ、これしろ、と指図をするのは
確かに周知のものです。

この「神」とされてきた声は
実は右脳の作用によって聞こえてきた幻聴で、
多くの古代の人々はこの幻聴の声を普通に信じ
文明や文化を築いてきたのではないかというのです。

普段、我々現代人は
左脳の言語によって処理された「意識」を持って
生活をしています。
この言語的に組み立てられた意識というのは
言語を司る左脳の働きによって生まれているもので、
イメージを司る右脳は左脳の補助的に働いていると
言われていますが、
精神活動が左脳に偏った現代人と比べて、
言語そのものが今より発達しておらず
もっと右脳の精神活動を働かせていたのではないかと。
そして、
人類が言葉という道具を使うようになり、
右脳の活動が左脳で言語化されると、
古代人はその左脳の心、意識の言語を
「神の声」と捉えて、信じていたのではないか。

これがこの本の仮説。

現代人の感覚としては、これは
いわゆる幻聴なのでしょう。

この幻聴の正体を、
著者は『二分心』と呼びました。
つまり、古代、およそ3000年とかそれ以上前を
生きていた人類というのは
現代人のような左脳主体の精神構造を持たず、
右脳も現代以上に活発に働かせる精神活動をしていて、
いわば、右脳と左脳が両輪となって働いて
この『二分心』の状態で生活していたのではないか、
というわけです。

遺された遺物や書物などから推察するに、
時代が新しくなるにつれ、
次第に人と神との距離は遠くなっていったと言います。
つまり、「神の声」という幻聴を聞く人が
減っていったのだそう。

それは農耕技術を手に入れ生活が安定し、
また言語が文字として記録されるようになって
より人間の「言語」が発達したことに
要因があるのかもしれないとか。

聖書の時代。つまり今から2000年前ともなると
神という存在は、かつての「語りかけてくる」存在から、
「かつて預言者が語るところの」存在へと
遠ざかってしまいます。
そして、「悪魔」や「悪霊」という概念が生まれたりするのも
この時代ごろから。

そして現代になり、
こうした、かつて「神の声」とされてきた声は、
今でも、先祖返りのように
一部の現代人にも気質的に聞こえていて、
精神疾患の一症状として、
場合によっては治療の対象になりうるものとなったのだと
この本では述べられています。

もちろん、僕のこれだけの説明では
確かに荒唐無稽な話にしか聞こえないかもしれませんが、
そこを理路整然と、証明していくというのが
この本の内容であり、かつて
著者が論文として記したものなのです。

ここからは私感ですが、
この本を読んで、確かに結論への結び付けが
強引に感じ、飛躍しすぎな点も
僕、素人ながらに感じる部分はあります。

しかし、人間には
あたかも「神の声」と思えるような声を
幻聴するという機能、気質が
元々、備わっているのではないかという考えを
一蹴するかのように否定するのも
また無理があるように思えます。

考えてみれば、例えば
サルは言語をもたないのに
人間と近い社会を群の中に形成しています。
どうやって秩序を保っているのか?
ただ、ボスが強いだけなのか?

蜂の集団や、イワシの集団はどうでしょう。
なぜ、無数の個体が集団を形成し
その集団がまるで一個の個体であるかのように
乱れることなく移動できるのはなぜか。

あるいは、
ヒトを含めた哺乳動物は
子孫を残すための生殖行為の方法を
どこで知り得たのでしょうか。
普段排泄するだけの器官を
オスとメスが結合させるという行為を
何から知ったのか。

それは、習性だとか本能だとか、
そういうものから得たのかもしれない。
そうやって何万年も生命は繋がれてきて、
そうした習性や本能に関わる
生物にあらかじめ組み込まれてたプログラムが
ある日、ヒトが言葉を発明し利用するようになって
言語化されるようになったとしたら、
そのプログラムは何を語り出すのだろう。

この辺りは僕も兼ねてから
不思議に思っていたことでした。

本を読むにつけこの「二分心」というものは
まあ確かに、
スマホやパソコン、ゲーム機などを操作している時、
画面にいちいち
それらのデバイスを動かすための
プログラム言語が表示されるようになった状態だとすれば、
それはそれで邪魔で仕方がないし、
混乱もするし、人によってはそれを
狂気と呼びもするかもしれません。

けれど、そのプログラムというのは
生命維持、種の存続のために必要なもので、
人類がまだ狩猟生活をして
常に命の危険と隣り合わせだった環境にあった時、
その「二分心」の声は
生き残るためのナビゲーションシステムとして
常に有用だったのかもしれず、
やがてそれも安全な生活が送れるようになるにつれ、
それが常時起動されているシステムから、
緊急ブートシステムへと役割を変えていったとしたら、
「二分心」つまり「神の声」が
どんどん遠くなり、聞こえなくなっていったことも
理解できますし、
また現代においても同様のこれらの症状、現象を
説明する時、
人が極度のストレスにさらされて
このシステムが不意に起動し
幻聴という精神症状を引き起こしているのだとしたら、
そう考えれば理屈として矛盾はないのだろうなと考えられます。

まあ、いずれにしろ
本でも書かれているように、
幻聴だろうが、神だろうが、
これはあくまで
「自分の脳」が作り出しているものだということは
僕もその通りだと思えます。
しかし、その「自分の脳」というのは
左脳主体の自我が考える以上に
領域が広いのだろうたとも思えます。

さらなる研究を期待したいところではあるのですが、
提唱者が既に亡くなっており、
解明されないままになっているのは
惜しいと感じます。

まあ、僕の下手な説明より
実際に本を読んでもらった方が
話は早いんですがね・・・(笑)