日常論

ずっと変わらずあった日常の光景というものが
一旦なくなってみると、
いかに日常の変わり映えのない光景が
心象における一つの大きな構造物のようなものだったのだと
しみじみ思ったりするもので。

例えばプロ野球とか。
あともうすぐ、相撲も始まるのでしょう。
個人的には大して興味があるというわけではないのですが、
やはりそれでも、なんとなくつけているテレビとか
ニュースのスポーツコーナーとかで
そういう話題に触れることがなくなるというのは、
心の奥底の「日常の認識」という琴線を
不安定にさせるものなのだと思わされます。
まあ、「慣れ」だと片付いてしまう
質のことでもあるのでしょうが。

20年以上前にあった某バンドの歌じゃありませんが、
実は何につけても「無自覚」でいられる
楽な日常というのは、
案外、いくつもの「なんでもないような事」が
一定の時間軸、幅を伴って構成された
一つの大きな構造物であり、
人というのは、そういう構造という
ゆりかごの中を揺蕩う存在なのかもしれません。

世の中には、
変わらない事で人の毒になるものと、
薬になるものというのがあります。
毒になるものとは、
人を人に立ち返らせないもの。
薬とは逆に
人の人たる在りどころを思い出させてくれるもの。
そして、物事には何につけても表と裏があって、
その表と裏、毒と薬。
世の中が複雑に入り組みすぎて
何が何やら判断はつきかねるのだけれど、
それでも何かが
「ほっとする一瞬」というものは
少なくとも、その瞬間においてはとても純粋で、
人にとっての、人らしい真実は
そこにあるのではないかと思えます。

そして、そういう瞬間というものは
おそらく「何でもないような事」という
ゆりかごの中で沸き起こるものなのでしょう。
だから、突然「非日常」が有無を言わせずやってくると、
心はざわつきます。
突然、巣を引っ掻き回された蜂のように。

まあ、毒か薬かとか、表と裏とか、
見えてくるのは
ゆりかごの外へ放り出された時なのでしょうけれど。