幸福度の高い生き方

元号が変わりましたが、
これから先の時代というのは
「個人の幸福」を追求し、
その度合いを高めていくことが望まれる、
そんな時代になるような気がします。

特に日本はこの先、
高齢者の割合が増え、人口も減っていく、
そういう状況、要因から生まれる
様々な影響を受ける社会において、
何をもって「自分の幸せ」とするのか、
それを改めて考えざるを得ない、
そういう時代になるのではないか、ということ。

むしろ、そうしないと
誰しもがもれなく
悲惨なことになるのではないかとさえ
思えたりもします。

『人として幸福であるということは
どういうことなのだろう』

「自分にとっての幸福」であるということは、
いかに自身の内的世界の「美しさ」を
外的世界に投影するかということであり、
それを、自身以外の何ものや条件によって立つことなく、
自分自身の責任ものとに規定し、
創り出していけるか、
これが新しい元号の時代、
「令和」のテーマであれば素敵なのに、
そう思えるのです。

個人の幸福を追求した時、
いかに「独りよがり」や「棚上げ」することなく、
またいかに誰もが「失うもの」や「奪われるもの」のない、
そのような世界を外的な領域に
いかに「投影せずにいられるか」
そしてそこに実現するものがあるとすれば
それこそが究極的な「幸福の美しさ」であるのではないか。

誰もが幸福でいられる
理想郷になり得るのではないか。

かつて昭和という時代が終わり
平成という時代の只中へ入っていった時、
人は、「何かしら」の昭和特有の価値観を
死にゆく価値観と手放していったように、
すでに、平成の末期において
同様に平成という時代に培われた価値観もまた
淘汰されていく価値観とは何であるのか、
その輪郭がすでに現れ始めている気がします。

「強さ」は「弱さ」だったのです。
「豊かさ」は「貧しさ」だったのです。
「賢さ」は「愚かさ」だったし、
「厳しさ」は「優しさ」だったのです。

それは相対する価値観が
反転するということではなく、
裏腹に併せ持っていて
常にそのバランスに気を使っていないと、
簡単にどちらかに偏って
人生が「幸福でないもの」になってしまう、
ということ。

「幸福」とは「不幸」なことを導く要素だったし
「不幸」の中に「幸福」が
紛れ込んでいるものだったりするのです。

対岸の住人の姿に囚われているうちは、
自分が幸せになるほど、
周りがそうではなくなっていくのです。

人の中にある「幸福」の定義がまだらであるのだから、
自分から見える外的世界もまた
まだらであっていい。

ならば、「自分の中の幸福」という
揺るがないそれの所在はどこにあるのか。

声が大きいだけの人の声に
惑わされてはいけない。

縮んでいく社会の中で
こうしたロジックや世界観を
生き続けた結果を想像できる人が
多くなっていく、そんな時代であれば
日本も幸福度の高い人たちの住む国に
なれるような気がするのです。