得られる愛に価値は無い

『愛ってものは蓄えるものじゃない
何もかも失って
それでも捧げられるのが愛じゃないのか?』

by 人間椅子

最近ハマっている「人間椅子」のニューアルバムの中に
収録されているとある曲の中に出てくる
歌詞、というか「語り」の部分です。

正直この台詞には痺れました(笑)

誰しも人から愛されたいと思うし、
それこそ欲を言えば
より沢山の人から愛されたいとさえ思うものです。
さらにはその手に入れた(と思っている)愛を
独占さえしようとする。

はたしてこれは
真に愛の姿をしていると言えるのでしょうか。
むしろ愛を得ようとする事は
かくもこれほど、さもしくて
愛は愛と言わせしむものなのでしょうか。

愛を得たいと欲する事は
それすなわち
自分に愛が満ち足りていないから
そう思うわけで、
愛を得ようとする事自体、
それは愛に満ちた状態とは
真逆の想いがそこには透けて見えるような気がします。

断ずるなら、
より多い愛を得ようともがく
その内的世界は
「愛の飢餓地獄」と形容してもいいかも知れません。

それを得て喜ぶのは
愛とは言いません。
与えて喜ぶのが愛だと思うのです。

先の「人間椅子」の歌詞ではありませんが、
「真の愛の発現」というものは
実のところ
「得られる事で蓄えてきた愛」を
すべて失い、
そうした愛が全く無くなったと思えた時にこそ
待たれるものであるし、
そこにこそ本当の意味での
愛が示される境地があるといっても
過言ではないでしょう。

「得られる愛」などというものは
ただの幻想なのでしょう。
そこに向けられやって来て
まるでそれを手に入れたように勘違いしてしまいますが、
瞬く間に自分をすり抜け、通り過ぎて
遠くへ離れていってしまう。
それが愛。

だから人はそうした愛を
引き止めようと
固執したり、独占しようとしたりしてしまいますが、
その振る舞いこそが
かえって愛を遠のかせる元凶となるのでしょう。

愛は自分の中から湧いて出てきて
放出する性質のものだと思います。

自分が放出するから
その周りは愛に包まれるし、
そのように放出される愛というのは
自分が生きている限り、存在している限り
無限に放出する事が出来るのです。
自分が「愛さない」と決めない限り。

すなわち「生きる力」とは愛ほかならないわけで、
愛を放出しないのであれば
それは「生きる力」を萎縮させているとも言えるのでしょう。

そう信じて愛しているうちに
人は愛されていくのでしょう。
しかし愛されていると感じたら、
もうその事は忘れた方がいいのかも知れません。
忘れて愛そう。

生きるなら愛せ。
愛するなら生きよ。
そのどちらも出来ないというのなら
その時は
人である事を放棄し、もう死ね。

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