純愛

最近よく思います。

結局のところ本当に純粋な愛、
純愛というものは
自分が自分を完全に愛しきる事なのではないかと。

人へ向けられる純粋な愛情というのも、
そもそも源を辿れば
最終的に自分を愛しきる事というところに
帰結するような気がします。
自分を愛するという土壌の上でないと
真の純愛は芽吹かないのではないかと。

とは言っても
はっきりさせておかなければなりませんが、
当然ここで言う
「自分を愛する」というのは
自己中心的、つまりエゴイストになるとか
自己愛的、文字通りナルシズムに耽溺するとか、
自己完結的、要するにドグマティックになるとか、
そういう事ではありません。

しかしこれは
論理的、具体的に説明するのが
非常に難しい概念でもあります。

「自分を愛する」という事の真意を理解するには、
例えばある程度の人生経験が必要なのかもしれませんし、
もしかすると、割と多くの人は
人生経験とは関係なく自分のメンタリティとして
ごく自然に身に付いているような
センスの問題もあるかもしれません。

だからこうして言葉、文字にして
説明するのも大変なのですが、
なんとかやんわりと弁証してみるのなら、
人を純粋に愛するには
やはり自身の中に余計な邪推や疑念の類いの一切は
あってはなりません。

ひとかけらでもあれば、
それを取り繕い、補完するための
不純物が生まれるからです。

この不純物が人を苦しくさせるのでしょう。

故に人を純粋に愛するには
その人が完全、完璧に愛するに足る人であると思うだけの
信念、信心が必要となってきます。

何のためか。

愛に混じった不純物で自分の心を苦しめないために。

人が最も楽でいられる時というのは、
身の回りのすべてが完全に信じられる時。
つまり、自身の周囲を全肯定している時。

その安楽を甘受して良いのだと思える事こそが
自己愛であり、
また誰からも奪わない罪を作らない愛なのでしょう。

愛というものはそこまで高め、追求すると
そこに突き当たるのです。

故に人は、もっと自分を愛するべきなのでしょう。
と言うか、愛さないと
「自身という体験」は何も始まらない。

そこに一片の不純物がある事で、
そしてその不純物に意識を奪われる事で
それは引力を持ち始め、
他の様々な不純物を形成していきます。

人はこの過程で苦しみを感じます。

自分を苦しめていいのか。
自分は自分で労らなければ
永遠に癒されません。

自愛する事とは
不純物を手放す事なのだと思います。

その心の澱は
根深く浸食した菌糸ではありません。

自分の意志と、ものの考え方次第で
いとも簡単に、いくらでも手放せるものなのです。

そう、手放そうと決意できるのも
まずは自分を愛する事から。

誰も信じられなくなっても、
誰からも愛されなくなっても、
せめて自分だけは
自分に寄り添って
自分をひたすらに信じ、愛するだけで
きっと見えてくる世界は180度変わってくると思うのです。

純愛とは、
ただひたすらに
揺るぎなく、力強く、堂々と、
自分を愛する事なのでしょう。

そうするといつの間にか、
本当に純愛が目の前に見えてくるのだと思います。


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