あ、記事ダブってんじゃん・・・

<筆者注>

この記事を書いた後、
自分の過去の書き込みを見たら
今年(2017年)の2月25日付の記事
同じようなことを、すでに書いてありました・・・(笑)
別のことに書き直そうかと思ったけれど、
せっかく書いたし、
新しいこと考えるのもめんどくさいので(笑)、
そのまま載せちゃいます・・・。

・・・荒いな・・・。

ちなみに、あれからまた1回行ったかな?

<以下、本日書いた記事です>

ここ数年、というかまあ、
今の街に引っ越してきてからの
趣味なのですが、
それが美術館巡り。
「巡り」と言っても別に
一日でハシゴするわけじゃないけれど・・・。

こまめに美術館のホームページをチェックして、
良さそうなのがあれば
チェックしておいて、暇のある時に行くのです。
まあ、映画感覚ですね。

やっぱりね、
いわゆる名画と呼ばれるものや、
展覧会で出店されるような絵というものは、
印刷で見てもその良さは全く伝わらないと
確信しますね。
ましてや、ネットで検索すると引っかかってくる
画像なぞ、いわんや。

生の筆跡、筆運び、
油絵であれば、その厚みとか。
それはもう全然違います。

そうした、過去の人類の「為した証」というものが、
100年、あるいはものによっては
1000年とか、
もちろん時には修復しながらであっても、
偉大な人の作った『それ』を
間近で見ることができるのですから、
それはもう、
お金を払ってでも見てもいいと思えるものなのです。

それにもう一つ、
そういう過去の偉大な人類の遺産とも言える
それらを「今のうちに見ておきたい」理由として、
なんかほら、
最近って本当に世も末っていう感じのご時世でしょ。
10年くらい前であれば、
くるぞ、くるぞ、来たらやばいよ、と
言ってた世界が、来ちゃった感があるというか。

今、見ることのできるこの機会を逃したら、
もう永久に、そう、仮に
魂というものが存在して、
かつそれが永遠の存在であったとしても、
この「形のある人類の遺産」というものに、
直接フィジカルに接触することができるチャンスは
もう未来永劫、訪れないような気がしたりとか。

「形のある人類の遺産」は
「形のある人類」とともに、
このまま焼けて塵になりそうで。

いや、形がなくなってしまうのは
別に割とどうでもいいことかもしれません。

仮にそうなってしまわないうちに、
それこそプラトンがかつて言ったところの
「イデア界」というか、
つまりは
僕の体験の記憶として、
それの「フィジカルとは別の本質たるもの」を
上の世界に移し替える必要性、
というものも、あるのかもしれないと。

そういう観点から美術館を巡るのも
また一興かな、と。

<再度筆者注>

今回の記事の終盤に、
結構、深く言及したい内容を含んでいたので
無理やり、載せました(笑)

そのうち、制作が済んで落ち着いたら
書くと思います。


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