素敵な人

ふと思うところがあって、
『素敵な人』というのは
いったいどういう人の事だろうと考えたのです。

もちろん、「素敵な人」という定義は
人によって様々あると思います。
しかし僕が思う「素敵な人」というのは、
必ずしも人として何かを量る要素が
ひとつふたつ抜きん出ている人であるとは
限らないのだろうなと感じています。

実のところ例えば僕なんかですと
音楽をやっている身でありますから、
音楽的な才能が
強烈にずば抜けている人というのは
やはり格好良い、
すなわち「素敵だ」と
直結していた頃というのはありました。

そういう人が素敵であると感じたから、
頭がキレキレな人が格好良いと感じたから、
そういう人になれるよう僕はこれまでも
精進してきたし、
それは自分の理想像として追い求めたい、
自分の中の目標でもあるのだとは思います。

僕や他の人でもそうなのだと思いますが、
こういう事というのは
自身の中での主観であって、
その「素敵である」と思える目標を達したら、
誰からも愛される人になれるかと言えば、
そういう事ではないのだと思います。

こと、例えば僕みたいに
「素敵さ」の性質がいささか
ラディカルな方向に触れてしまっていると、
むしろ逆にあまり
人から愛されるべき人足り得ないのではないかと
感じたりもします。

客観的に俯瞰するに、
「素敵だ」と言われる人というのは、
一般的には
それほど何かが極端に抜きん出ている人では
無いように思えます。

もちろん、ある程度何かしらの
ポジティブな意味で目に付く「何か」を持っているから、
平均化された人たちの群像の中で、
惹き付けられるべき「素敵さ」が際立つのでしょうが、
それは例えばいく所までいってしまうと
逆に敬遠されてしまったりするもので、
凄いとは思われても「素敵」とは思われないのだと思うのです。

「素敵だ」と言われる程度というのは、
結局、そう思った人にとって
それは少し頑張れば手に届く程度のレベルだったりするのでしょう。

そういう意外と目標値のハードルが低いものが
「素敵」と言われる、あるいは思われるような気がします。

絶対に自分には無理と思わせてしまう領域まで来てしまうと、
マジョリティの総意が
感情論にまで影響を及ぼす人間社会の中では、
逆に角が立ったりするのも事実だと思います。

「素敵な人」というのは
実に曲線的であるのだと思います。
そしてかつ、身近である。
このシンパシーを得られる人というのは
やはり誰からも好かれるのだろうなと思うのですが、
なんか自分はもうそこにはほど遠い所に迷い込んでしまって、
そこの風景を一度見て知ってしまったらもう
「身近」のある世界にもう戻る事も出来ないような気がしてます。

人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。
よく言われるこの言葉の本質を理解してしまえるのは
少し悲しくも寂しいものかなと感じたりもします。


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