何が無常なのか?

まあ今日のお話しとは直接関係が無いので
あえて詳しくは言いませんが、
先日、ちょっと近しい方が他界され
お通夜に参列してきました。

その際、葬儀場のお坊さんの説法の中で
「無常」という概念を
「儚いもの」と同義の概念として
話されていました。

確かに、こういう一般的な葬儀の場で
仏教的な世界観を知らない人にも
理解出来るような言葉選びで考えると、
そこまでザックリした定義付けも
やむないのかなとも思いつつも、
普通、お葬式に来る人はお坊さんの話なんて
大して聞いていないだろうから、まあいいやとも思いつつ。

かく言う僕も、お坊さんの説法は聞き流していたのですが、
おそらくお坊さんは
「生きている人は誰でもいつか必ず死ぬんだよ」
というポイントを言いたかったのだと思うのですが、
前述のように「無常」と「儚いもの」を
同じものと扱っているところが
妙に引っかかったと言うか、
違和感を覚えました。

どこか釈然としないものがあり、
後になって、ちょっと「無常」について
調べてみたのですが、やはり
儚さというものは大きく考えても
「無常」と同種ではなく、
「無常」という概念の中に「儚さ」という要素が、
他の「無常」の概念を表す要素と同じように
含まれているものである。
僕はそう理解しました。

あと、これは調べてみて知ったのですが
「無常」という概念自体にも
軸と言うか考え方のベクトルがあって、
毎瞬毎瞬、常に人は生まれ変わり続けているという
非永続性な特性を持つ考え方と、
例えば肉体が世代間で引き継いでいく
知識だとか、体験などの蓄積を受け継ぎつつ、
種としては永続性を持つものの
個体単位で見ればいつかは死に行く存在であるという観点の
両者を掛け合わせたようなものが
いわゆる正しい「無常」の概念なのだそうです。

「無常」を知るための基本は、ざっくりいうと
「諦める事」なのだそうです。

「いつかは無くなるものだから」とか
「もともと無かったものなのだから」という無常観です。
宗教哲学に関係なく、おそらく日本人が
「無常」を例えるなら一般的にこういうものの事を指すのでしょう。

無常であるから
諦めも肝心なのだよ。
ドライに言ってしまえば
それが仏教に於ける無常観なのだから、
前述のお坊さんの言っている事の辻褄は合っていると
確かに言えるのでしょうが。

しかし、ここで思い違いをしていけないのは
「元々いつかは無くなるものだったのだから」と
それを無に帰してしまっては、
それは「無常」の本質から少し的が外れるのかなとは思います。

無に帰すという事は、
根源に還元する事である。
こういうニュアンスがしっくるくるのかなと感じます。

「無常」を感じるのは、それすなわち
自分の内的認知の定点をどこに置き、かつ
どこまでの範囲で映し出して把握しているかという、
局所、限定的な範囲内にある事柄だけで、
自身の内的世界の視野の外側にも
実はもっと世界が広がっていて、
その全体の中の動きを人は
「無常」と見ているに過ぎないものなのでしょう。

窓の外に見える雲は、
いつからか窓からの視界に入ってきて、
やがて窓の外へと流れていくけれど、
雲自体はこの地球上の大気のどこかをまだ漂っています。
さらに、目に見える雲は
時には雨となり地上に落ちる事もあるだろうし、
もっと目に見えない水蒸気として浮かんでいる事もあるでしょう。

限定的な観点で見るからそれらは
「無常」であるかのように見えるだけで、
実は世界全体というのはもっと不変で、
動かざる性質を持っているのかも知れません。

その全体の中の動くものを観察する事によって
無常観を感じる事もある。
そういう事なのでしょう。

もっとももしかすると、
その全体の中で動くものというのは
実は存在しないのかも知れません。

本当はこの世界で
たった一つのもの以外は一切動いていなくて、
動いているのは「私」という
自分の意識である可能性もあると思います。


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