社会体制が人の寿命を延ばしているのかもしれない

今の時代は「人生80年」と言われますが、
それこそ100年ちょっと前は
同義の言葉で「人生50年」と言われていたそうです。

人生50年と言われた時代と比べて、
一般論的におおよそ
人生というのは30年延びたと言えます。

かと言って果たして人間というものは、
延びた寿命の30年分を
より有効に生きているかと言えば
答えは否でしょう。

結局、人が生涯の中で体験する出来事の量は
今も昔もさして変わる事はなくて、
寿命が30年延びた分だけ
人生経験の1年あたりの濃度が
薄くなっただけのような気がします。

個人的に思うに、
やはり人生というのは50年くらいで終わっておいた方が
コンパクトで効率の良い
人生を送れるのではないかと感じる事もあります。

これはおそらく、僕が独り身で
背負うものがないから
こういう風に簡単に言い切れるのかも知れませんが、
例えば25歳で子供を産んだとします。
その子供が20歳になる時は45歳。
5年余ります。

もちろん、こういう簡単な算数で
人生が説明つかない事は重々承知しています。

人間の人生
仮にノートラブル、ストレートに生きれば、
人としての役割を果たすには
たった50年でもまだ余るのです。
けれど、何故そうはいかないのでしょう。

それはおそらく、
体制的なものや経済的なものなど、
いろいろな要因が絡まって構築された
社会構造がそうさせないのでしょう。

人間誰もが
ノートラブルでまっすぐに人生を歩めるわけがありませんから、
社会構造が人間の人生にモラトリアムを与えたのかも知れません。
本来必要な人生の期間と、
社会がモラトリアムとして超過した期間も合わせて
仮定された人生の「生きる時間」が延びる事によって、
医療は発達したとも言える知れません。

医療を発達させた原動力は様々ですが
ざっくり簡単に一言で片付けるなら、
社会が延長した「人である期間」を
生きるため、生きさせるために
寿命は延びたと言えると思うのです。

だからと言って、
こういう社会構造や寿命に関わる医療の意義を
否定しているわけではありません。

この社会自体が今、
人間の寿命をおよそ80年と設定して成り立っている以上、
この構造を肯定して生きなければならないのは
当然の事ですし、
知らないうちに何となく延長された寿命までは
自分が嫌だと言っても、
周りが自分を生かそうとします。

これは感情論的にもそうですし、
また社会の中で生きる人間としても生かされるのです。

子供が出来れば孫の顔も見たいと思うのは
親心として自然です。間違いなく。
けれどこれは
冷徹な言い方ですが、
人のエゴだと思うのです。

とどのつまり、
エゴが長く生きたいと思わせるのでしょう。
長く生きたい民衆が
社会体制に更なるモラトリアムを拡張させ、
きっと100年で
30年も人の人生を延ばしてきたのでしょう。

しかし、こういう状況の中で
人は延長されたおよそ30年分、
人が賢くなれるわけではありませんでした。

むしろ愚衆となったと言っても良い。

前述のように、
寿命が延びても人が一人分の生涯で
知り得る叡智などたかが知れていると言うか、
所詮、生涯で知り得る物事は
一人分であって、
そこに何年という「期間」は問題ではないのだと思うのです。

ひとりの人として
生涯で体験する事の量を全うするには、
50年そこそこあれば
本当は間に合うのでしょう。

無駄に寿命を延ばしても、
おそらく延ばした分だけ
人生の、命の価値は下がると思うのです。

何故なら
寿命の長さと人生の重さは
比例するものではないのだから。


応援のクリックで
ご協力お願いいたします♪

にほんブログ村 音楽ブログ シンガーソングライターへ
にほんブログ村


「風は群青の空をそよぐ」
2013年5月25日発売!

・歌詞カード付きCD-ROM(限定)の購入は

コチラ←SOLD OUT!


夏のカケラ on Radio たまにTVでは
ご紹介するお便りを随時募集しております。
完全匿名制ですので、お気軽にお便りを下さい!


お便りはこちら!