拒まれる事を怖れて人を止める人たち

人間、恋をしてやはりいちばん辛いのは
振られる事なのだと思います。

けれど、ものは考えようと言うか
まぎれも無い理屈だったりするのですが、
そもそも「振られる」という状態は
愛さないと成立しないのです。

つまり言える事として、
「振られる辛さ」と
「愛した度合い」は比例するのです。

言い方を変えれば、
精神的安楽な状態というベクトルで見れば
それは反比例するとも言えるのですが。

もう一度言いますが、大前提として
「振られる」という体験は
愛さないと経験できません。

故に振られた数というのは、
そのまま愛した数でもあるのです。

こう考えれば、
むしろ振られた数というのは
誇れる数でもあるのでしょう。

もっとも、
不自然に連続して振られるとなれば
愛の疎通を阻害させる
何かしらの問題があるのだと思いますが、
それでもやはり
愛さなければ振られない。

今の人、特に若い人は
振られる事を極端に恐れるような気がします。

愛する事には当然、振られるリスクが伴いますが、
この振られると言う
自分の外部から突きつけられる自己否定に
怯えるあまり、
自分の愛したいという衝動に蓋をしている人も
多い気がしますし、
そもそもそれ以前の段階で、
愛する事、愛したいと思う事さえも
知らない、あるいは知ろうとしない人もいるとさえ感じます。

愛をその心にたたえない生き方をしていると、
人はその人間性を失います。
何故なら人間性の本質とは
愛そのものであるのだから。

だから振られる事を怖れて
愛を見ないようにしていると、
愛と言い換えても良い愛の発露としての人間性は
歪んだ形で顕現し、
それは巡り巡って
いびつな社会構造まで作っていくのです。

正しく愛したのなら
振られる事などしょっちゅうあって当然だし、
それは確かに奈落の底に突き落とされるような
落胆を伴いますが、
だからと言ってそのまま
自分という存在を構成するあらゆるものが
否定されたからではないのです。

否定されたのではない。
マッチングに失敗したと言っても良いかも知れません。

人はやはり、マッチングに成功するまで
愛を求める義務があるように思います。

そして、叶わなかった事への落胆は
新たな自分の人間性を獲得する
可能性を秘めているものです。

しかしながら
途中で愛を放棄するのも自由ですが、
愛を捨てるという事は
人間を捨てる事と等価の意味を持つ事を
忘れてはならないのでしょう。

と同時にまたそれは
自分を捨てる事でもあると思います。
自分という精神が
人間性を得ようとする事を
止めた事と言っても良い。

正しい愛し方をすれば、
正々堂々と正しい愛し方をすれば
正しい答えにいつかは必ずたどり着きます。

たどり着けない人はきっとまだ、
どこかで自分の中にある過ちや傷に
気づけないまま立ち往生している人なのでしょう。

それに気に病む事無く
前に進める人のは遠からず春はやってくるのだともうのです。


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