菩提の境界はどこにあるか

ほんの少し前にお話ししましたが、
人が自分の考えを述べようとする時、
また何かしらについて一定の見解、思想を持つ時、
どれだけ客観的かつフラットに
極力公平に考えようとしても、
常に自分の考えと比べて
より左寄りな考え、右寄りな考えというのは
付いて回るという話をしました。

それは永遠の座標軸という
広大な地平を延々と歩くようなものです。

大昔の智慧のある人は、
そのもの思う事の出来るその全体の事を
菩提と呼んだのかも知れません。

人はこの菩提の地平を見るため、知るために
ここにその精神を宿したとするのなら
人はまだ道半ばの存在であり、
またその地平を垣間見たのなら
その時人は人をして人ではなくなるのかも知れません。

人というのは、そもそも
菩提を未だ垣間見る事の叶わない存在であり、
それが叶わないのが人間の限定された叡智であるのなら、
一般的なそれに比べて
別にどれだけぶれた思想を持とうが、
所詮は人の思うところの範疇にしかないのだと思います。

少なくともおよそ、
自分は人であるという自覚を持っているうちは、
結局は人という存在ならではの
考えの枠を超える事は出来ないのです。

それがどれだけ突飛な考えであっても、
それを思った人が
人であるのなら、それはやはり
人知の及ぶ物事なのです。

故にもし、
この世に菩提という概念が実在するのなら、
どれだけ奇人変人と呼ばれようが
その人が人として事実として存在しうる限り、
人という範疇においては
似たり寄ったり、所詮人の成す事なのだと思うのです。

だから無理に他者に迎合しなくても
自分は自分の信念に乗っ取って生きれば良いのでしょう。
もちろん、それによって導かれる
結果の責任も自分で取らなくてはならないのですが、
それを踏まえた上で、いかなる場合でも
人と人との差などほんの些細で
気に病むに値しない事なのだと思います。

それでもなおまだ、
人を超えて菩提の地平を行くというのなら、
それは人を捨てるという事になるのだろうと思います。

自分を超え、人を超えた時、
そこに我は無い。
無限の広大さと
無限の豊穣さと
無限の均衡をたたえたそこが、
おそらく人は、人の知覚をもって
認知は出来ない世界があり、
そこでは
この世の生きとし生けるものすべては
無限のエッセンスを感知する
単なるユニットの一つなのかも知れません。

人の根源は元々がそこにあるとするなら、
菩提の地平など
いつでも見ることのできる
それこそ最も普遍的なものであるから、
人として自分を認識している現在に
わざわざ菩提の地平などというものに思いを巡らせる事自体、
もしかすると不毛なのかも知れません。

それより、人という
局所的、極限的なこの状態を
存分に味わう方が
かえって理にかなった事なのでしょう。

至極当たり前の事ですが、
人は人として振る舞うからこそ
人なのです。
人をして人から脱却しようとする事は
むしろ本末転倒な話なのでしょう。

と言うより、
人は人であらんとすればこそ
菩提は、より本来の菩提足り得るのだと思います。


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