愛そう。脇目も振らず

きっと人というものは、
愛する事で心は磨かれていくのだと思います。

ともすれば極論のようでも、
それでも事実として
やはり「愛されているか」という評価は
さして重要ではないように思います。

人は愛されていると感じる時、
その瞬間というのはそれはそれで
至高の瞬間を体験できるのですが、
瞬間を通り過ぎればそれは
時間の経過に流されて、そこには残りません。

これは愛というものの性質とも言えるのだと思いますが、
放出されたら残らない、もしくは
やがて消えていくのものなのです。

だから自身の外的なところで愛を感じても、
いつも虚ろだし、留めておこうとすると、
確かめたくもなるし、
愛そのものの流れに逆行して
辛くなったり、依存してしまったりするのでしょう。

けれどこれが「自分が愛する」ということになると
また事情が変わってきます。

放出される愛を受け取るという立場から、
愛を発振するという立場になるからです。

自分が発する愛もまた、やがては消えていくものだから
その流れに反しなければ良いだけの事なのでしょうが、
愛するのをやめるということは、
よほど何か決定的に幻滅するようなシチュエーションを
体験しない限りなかなか難しかったりするからです。

手放せない理由のその根本はおそらく、
愛する事が自分のアイデンティティの中核になって
しまっている事にあると思います。

故に、愛する事をやめるということは、
身を切る事と同義になるのでしょう。

それでもなお、
自分のエゴとは別の次元で
愛は放出されて次第に消えてゆく。

その流れの中で
自分はどこまで愛の本質に迫れるかという
甘くも辛い体験をする事もあるでしょう。

この体験こそが「愛されるだけ」では
叶わない至上の体験となります。

落としどころの実に難しい事ですが、
それでもなお、この体験は
至高だと感じます。

本質的な愛に触れるには、
自分が愛さなければいけない。
むしろ「愛される」事は端的に言うなら、
自分の愛が放出された反射、
自分の愛の影法師に過ぎないのだと思います。

愛されないのは、自分が愛していないから。
何かにつけて愛していないから
何かにつけて愛されない。
愛されない事を気に病んで
愛されようとするほどに愛されない。

それほどに
「自分が愛する」ということは重要なのです。
何は無くとも、
全ては自分が愛さなければ始まらないし、
ただそれだけがあれば良いのです。

むしろ、それ以外の想いが混ざってくると、
愛の純度は下がるのだと思います。

脇目を振らず愛そう。


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