人間としての有効帯域

以前、人間というものは
しょせんは下衆なものという話をした事があります。

内容はそっくりそのまま、
早い話が
人間、品格や良俗を求めても
本質は下衆なものだよという事なのですが、
そこからさらに掘り下げてみれば
結局人間はそれこそ
少なくとも文化を持つようになって以降、
おそらく何千年も
そのメンタリティは変わっていないのだと思います。

もちろん、例えば科学技術などは
日々進歩し、全くの原始時代の状態からすれば
まさに神と言っても良いくらいに進歩したのは確かですし、
そういう進歩した技術を使う人間の
社会構造や、さらに転じて価値観、倫理観などは
大きく変わったのも確かです。
原始的な集団生活を送っていた人からすれば
まさに今の時代は空想上の神の国とも言えるものでしょう。

けれど、そんなおとぎ話の国のような世界の住人たる
我々、現代人も
原始的な生活を送っていた人と同じように、
人を愛する事もするけれど
同じだけのネガティブな感情を
何千年、いや何万年経っても
克服できないでいる。

思うに、ここが
人間という精神性のスペックの限界なのだと思います。

故に人は下衆なものと言えるわけなのですが、
問題はここからです。

例えば人間特有のネガティブな感情を
完全に克服した人がいたとします。

その人は人間と言えるのでしょうか。

下衆なもの一切を克服し取り払った人は
人間なのでしょうか。

逆もまた然りで、
一切のポジティブな感情を排斥した
まるで地獄の住人のような
精神性を持ったその人を、
人は自分と同じ人間であると
言えるでしょうか。
論理的にでも、感情的にでも。

それでもやはり、
品性の向上を求める人からすれば
下衆なりに、品格に磨きをかけるでしょうし、
それが自己鍛錬となって
大きな英知を生む出すかも知れません。

こうやって精神の品格は成長していくわけですが、
おそらく、そんな精神の品格も
ある一定のレベルを超えてしまうと、
それはもう下衆な人間ではないのです。
すなわち、もう人間ではない。

さらに言うなら、
人(ひと)、人間として生きる必要性が
無くなるのではないかと思います。

人間の歴史というのは
文明というものを持つようになってから、
簡単に調べると最古の文明が始まったとされているのは
1万年ちょっと前らしいのですが、
人の精神性は文明の開闢以来、
成長、進化していないのではなく、
品性や良俗を求めた人は
人間の精神のスペックを超えて
人である必要が無くなっただけなのかもしれません。

人の精神であると規定する
上限と下限というものがあって、
その範囲内を人は生き、それが人だと思っているだけに
過ぎないのかもしれません。

人以上の精神は存在するし、
人以下の精神も存在する。

ただ言える事は、
この人間という生物が生きている
この世界というものは
やはり所詮、下衆な精神性というか
そういう傾向のある精神性を持つ生き物が生きる世界であり、
そのメンタリティの範囲内の意識、精神性を持っているうちは
1万年まえでも、20年前でも、100年先でも
永劫回帰の同じ事を繰り返す
この世界を生きるのでしょう。

ここは肉体を持つ生物が生きる世界なのです。
そして自分もまた、
極論からいえば
人間という精神性の観察者なのかもしれません。


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