夢の中の光景

ブログネタ:自殺について考える 参加中

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夢を見ました。
夢の中で自分自身、明らかにそれは夢だと
分かっている夢。
いわゆる「明晰夢」ってやつですか。
あ、これは夢だなと確信したので、
せっかくだから
ブログのネタにしてやろうと思い、
その僕の夢の世界を探検する事にしました。
始めに僕がいた場所。
そこは藤のように曲がりくねった
木の枝が入り組む
森のような場所。
木の枝には薄いピンク色、
ちょうど桜のピンクに
少しだけ紫を混ぜたような色の花が
咲いていました。
一輪だけ咲いていたのではなく、
スズランのように、
たくさん連なって咲いていました。
その曲がりくねった木の枝の森を抜けると、
視界の右側に海がありました。
その海はまるでタヒチとかの
南太平洋のようなエメラルドグリーンの海で、
そのふちの波打ち際より左側には
ベージュの砂浜が視界の奥に向かって
延びていました。
ベージュの波打ち際から左手側に目を移し、
陸地の方に向かって
10mほどいくと、
そこには庭園がありました。
奇麗に木が刈り込まれ、手入れされた庭園です。
イギリスの庭園を思い浮かべてもらえれば
分かると思います。
まさにそんな感じの庭園でした。
刈り込まれた木々は
深い緑色の葉をもつ木で、
丸く円を描く壁のように作られていました。
木々の壁の厚さはだいたい
1mちょっとくらいでしょうか。
その壁の内側には
幅が5mほどの間隔の芝生があって、
その中心付近には
明るい、もえぎ色の葉を持つ木を刈り込んだ
塔が2本立っていました。
直径にして3mくらい、
高さはゆうに10mを越えていたろうと思います。
人は僕の他には誰もいません。
海は見えても波音も聞こえません。
完全な静寂です。
しかしその静寂は生きていました。
生きる生命のエナジーをはっきりと感じたのです。
そのエナジーを感じる事が出来れば十分。
音なんて無くても、
その光景のエナジーの迫力は
圧倒されるように伝わってきます。
その光景を目の当たりにした僕は、
一瞬で確信しました。
あ、ここは僕が生まれる前に居た場所で
僕が死んだあと、またここに戻ってくる、
その場所だ・・・と。
何故そう確信できたのか・・・。
その光景は初めて見たにもかかわらず
明らかに、以前から見慣れた場所で、
懐かしささえ感じる、
そんな景色だったからです。
そこで僕は目を覚ましました。
目を覚ましたあと、なんか非常に疲れました。
そういうわけで今、
その時の夢を忘れないようにと
起きてすぐこの文章を書いているわけですが、
これを書きながら、ふと思ったのです。
よく、人は
体の中に魂が入っている
そんなことを言いますよね?
あれって、ちょっと違う気がするんです。
今日見た夢の印象、残った感触から察するに、
よく人が言うそれとは逆で、
むしろ
魂の中に肉体が入っているのではないかと感じたのです。
例えばリンゴ。
リンゴの実、これが魂です。
その実の中には種が入っています。
これが肉体。
これを読んでいるあなた。
辺りを見回してみてください。
あなたの目に見える全てのもの、
それがあなたの魂です。
全てが、この世の全てがあなたの魂です。
その魂が肉体を包んでいるのです。
そして自分の肉体に
常に意識を集中しているから、
肉体こそが自分であると
錯覚しているのにすぎない・・・。
僕が夢で見たその光景は、
他の何ものでもない自分でした。
始めに居た曲がりくねった灌木に咲く
美しい花たちも、
右手に見えた海も、
左手に見えた庭園も、
庭園の中心にそびえ立っていた
もえぎ色の2本の塔も、
全てが僕の一部であり、
それを見ている僕ももちろん僕でした。
つまり、
「その光景をみている僕が居る」
という現象そのものが僕であったのです。
目を覚まし、今僕は
ノートパソコンを膝に上に置いて
これを書いています。
この「ノートパソコンを膝の上に置いて書いている僕」
という現象そのものが僕であり、
それを取り巻いている全てが僕の魂であり、
これこそが生命の発現に他ならないと
そう思えるのです。
「生命」とは「体験」の事なのです。
「体験」をするために「生命」があり、
「生命」があるところには必ず「体験」があるのです。
そう。それが全て。
それが自然現象としての
生命の発現。
ブログネタで「自殺について考える」
というのがあったので、
ものは試しに参加してみようと思います。
僕が考える自殺とは、
自殺、それは「生命」を絶つという事であり
つまりは「体験」を放棄する事である。
という事です。
「体験」を放棄してしまっては
「生命」は成り立ちません。
自殺の後に見る世界とは、
「生命」という「体験」を
放棄したという現象です。
「体験」を放棄した以上、
もうそこから先、何もする事は叶いません。
自殺はリセットではありません。
「停止」「抹消」です。
完全に自分という「生命」を失う事に成るのです。
完全に自分という「体験」を失う事に成るのです。
何があろうと、何が起ころうと、
そこに「体験」があればこそ「生命」が宿るのです。
そしてそこに「生命」があればこそ「体験」が生まれるのです。
これが生命とこの世界のの真理です。
この世を生きて辛い体験を選びますか?
それとも永遠に
「自分という自然現象を抹消した」という体験をしますか?
好きな方を選べばいいでしょう。
どのみち、
僕らは「生命」という存在である以上、
何かしらの体験をせざるを得ないのですから・・・。
あとの解釈や回答は、
これを読んでくれたあなた方にお任せします。