8月15日

Four of Swords・・・
8月15日。
終戦の日ですよね。
やっぱり、日本人である以上
人それぞれ、自分なりの理解度で
戦争と平和について、
ほんの5分でもいいから
考えるべきだと思うんですよね。
だけど・・・。
僕が精神を病む前は、
「時事ネタを斬る!」みたいな、
社会派的な話題も、
当時やってたブログの方で
書いたりはしてなんですよ。
だけど、心を病んでしまってからは
もうダメ・・・。
僕の周りにあるもの全てが、
抽象的にしか捉えられなくて、
理路整然とした社会論を語るだけの
知能が無くなってしまったように思われます。
前にも
アメブロで話をしたかもしれないけれど、
今の僕は、何の大袈裟でも比喩でもなく、
まさにゴッホとかの抽象画の中に
入り込んだような、
なんというか
自分とそうでないものの違いが
曖昧で、
何をするにも、考えるにも
現実感がまったく欠落してしまっているのです。
だからチベットの問題も、
グルジアの問題も、
そしてオリンピックも
僕にとっては何かこう、
TVで夢物語を聞かされているようにしか
把握できないんですよね。
ということは、
もちろん
今日の終戦の日も然りで、
それを僕という、いち日本人として
その日に思いを馳せるということが
出来ないのです。
僕の中で「戦争」というものは
政治の最終手段という一般論ではなく、
僕という意識を持った「個」の
存在の在るや無しやの境界線の上を
いかに「生きる」方向へ
ベクトルを向けるかという
「闘い」としてでしか
把握できなくなってしまっているのです。
まあ、ここまで
長文を書く事が出来るようになっただけ、
精神は回復してはいるのだろうけれど、
常に意識は僕という「個」に
眼が向いたままで、
「世間」という社会の枠組みの中で
どう考え、そして振る舞っていけばいいのか、
それが分からないし、
それどころか、
そんなことに一切興味がわかないのです。
だから、一般論的な
「戦争と平和」について論ずる事は、
今の僕には不可能なのです。
ただひたすら内観し、
自らのアイデンティティを
考証し、再構築し、
新たな定義付けをし、
今この瞬間に
自分自身は何で在ったか、
その事だけにしか意識が向かないのです。
しかし、そんな状態の僕の目線から
言える事も無くはありません。
それは、
「戦争を放棄し、平和を得るには
まず各個人が自己の中の葛藤を放棄し
今ある心の状態を全て肯定することで
平安を平安たらしめる」
それが世界の救済の
第一歩なのではないかと思えるのです。
ごめんなさい。
僕の壊れた精神では
「終戦の日」を
このような視野で
こんなことしか
語れなくなってしまっているのです。
おっと、いけない・・・!
また「ゆるモード」にもどりますね(笑)