責任と判断 – ハンナ・アレント

半年ほど本棚に積んであった本だったのですが、
晴天の霹靂のように戦争の時代がやってきて、
ようやく読んだのが、ハンナ・アレントのこの
『責任と判断』

毎日、軍歌の足音の聞こえてくる(2022年4月現在)
まさに今こそ読むべき良著でした。

ざっくり内容を説明するなら、
人間の持つ道徳観、倫理観というものは
絶対的なものではなく、
また過つものでもある。
真の良識とは決して自分の外側にあるところの
社会の中に存在するものではない。
故に、自分自身がそこに何かしらの
良識を問われる事物があったとき、
社会や集団が是とする「常識の基準」ではなく
自分の理性に基づいてそれを評価する
責任があるし、またその責任には
同様に事物に対する判断の必要性も伴うもの。

そういうアレントの考えについてを
晩年の遺された未発表の論文や講義から集めて、
「責任」のセクションと「判断」のセクションの
二つに分けて一冊の本にまとめたもの。

・・・と僕は解釈している・・・。

以前僕は、彼女の著書である
『人間の条件』という本を読んだのですが、
これが妙に読みにくいと、このブログでも書きました。
なのでこの「責任と判断」も
こんな雰囲気なのじゃないかと思い込んで
うちの本棚に鎮守していたのですが、
この本に関しては、
講義などから書き起こしたものであるせいか、
「人間の条件」よりは読み易かった。
というか、割と普通だった。

ただ、内容に関しては上述の通り、
結構、考えさせられる内容。

この「責任と判断」の中でキーワードとなるのが
『凡庸なる悪』という概念。
このように書くと難しそうですが、
これは結構、平和な日本の日常でも
ありがちなもので、例えば、

「家のゴミはゴミの収集日の朝に
出さなくてはいけないけれど、
ついつい前日の夜に出しちゃうよね
あれ?結構みんなやってるし
別にそれに不都合なことあったっけ?」

みたいな事例というのは
まさに「凡庸な悪」が人の善悪の判断力に
侵食してしまった、身近な例ではないかと思います。
次第に、それが悪いことであるという意識すら無くなって、
それこそインテリですらそこに
「凡庸な悪」があることすら見抜けなくなる。

ユダヤ人であるハンナ・アレントの生きた
第二次世界大戦、ナチスドイツの時代、
歴史も語る通り、そこには確かに
「凡庸なる悪」があった。
ナチスの軍人をはじめ
多くの人がユダヤ人に対しての
「凡庸なる悪」に取り込まれていたのです。
もちろん、アレントは
家のゴミを前日の夜に出すことに
その悪性を見出していたわけではありません。

何故、こうなってしまったのか。
また、こうならないためには、
「自分自身が」
集団や社会が是とする常識に対して
それを自分自身の良識をもって
いかに判断し、ジャッジする責任を負っている、
彼女はそう説くのです。

常識や良識を外部、つまり社会や集団が謳うところの
「あたかも人間の総意であるように欺いてくる常識」に
自分の中の良識をジャッジする手綱を渡してしまうとき、
そこに『凡庸なる悪』が生まれるのです。

2022年現在、
まるで第二次世界大戦の時代に
逆戻りしてしまったかのような今だからこそ、
ハンナ・アレントが考える
「ナチスへのダメ出し」は
非常に重要だと思えます。

もちろん、この「凡庸なる悪」は
今回の戦争にだけ当てはまるものではなく、
我々が生活しているところの
自由主義の中にシミのように侵食していく
巨大な資本主義が生み出していく
『凡庸なる悪』についても目を向けるべきものです。
というか今年、戦争などなければ
むしろこちら側(自由主義社会)の
『凡庸なる悪』の存在を明るみにすべく
「今の時代こそ、アレントを読め」
と数年前から言われてきたのですが。

ともかく、
本来アレントが見据えていたところの
全体主義を育ててしまった『凡庸な悪』に
今一度、スポットライトが当たってしまっている点は
人類にとって非常に残念なことだと思えます。

僕自身、アレントは一冊だけ読めばいい、
みたいな感じで以前「人間の条件」を読んだのですが、
気がつけば、この本を読み、
次にも色々と彼女の著作を読みたくなってきているわけで、
なんだかんだで、
僕はアレントの思想に引き込まれている気がします。

けれどきっと、アレントが今も生きていて、
僕のこのような様子を見たとき、
彼女はきっとこう言う気がするのです。

「決して私の言う事(考える事)に傾倒してはダメ。
いろいろな考えを学び、何が中庸なのかを
<自分で>判断しなさい」
と。