愛はどこから来るのか?

愛はどこから来るのか?

間違っても、外側の第三者からではないことは
明確だと思います。

人は誰かを愛するとき、
あるいは何かを愛するとき、
それらの「愛すべき対象」から
愛はもたらされる、と考えてしまうことは、
愛への依存、いや正確に言えば
「愛の影への依存」に至ることなのだと思います。

愛すべきその対象は
主体か客体かに分けるのであれば、
客体となる質のものです。

あくまで主体は
「自分から発露する愛」なのです。

と同時に、主体であるということは
同じものを客体として投影しなければ、
その主体の姿を判別することはできません。
ゆえに、愛すべき対象があるのです。
正確に言えば、
愛たる主体に似通った姿を持つ客体に、
主体を投影しているにすぎません。

そこにある愛おしい人、あるいは
愛おしい他の物事、
それらはあくまで、
自分が客体として投影しなければ
出会っても通り過ぎていたでしょう。
見つけても気がつかなかったでしょう。

それらは「愛すべき主体の写し絵」であるが故に、
そこに本質を求めて追いかけても
追いかけた分だけ遠のいていくものなのです。

そこに対峙する対象の本質は
常にその反対側、つまり、
「自分の中」に主体があるのです。

現に実際のところ、
この世の外側の全ては
自分の内的な投影としてしか認識できないのだから、
故に愛もまた、
内側からやってくるのだと言えるのでしょう。