リトルロックの亡霊

以前紹介した、ハンナ・アレントの
『責任と判断』と言う本を紹介しましたが、
この本には、結構、心に刺さる部分がいくつかあり、
その中の一つについて少し考えてみたいと思います。

『責任と判断』第二章の序文として
取り上げられている
「リトルロック事件(高校事件)」と言うのがあります。
日本では少なくとも僕の世代では
何かしらそちら関係の勉強でもしていない限り
知らない事件だと思われます。

ざっくりこの事件を説明すると、
1957年にアメリカのアーカンソー州で起こった騒動で、
それまで、白人と黒人は別の学校に通って
教育を受けていたのですが、人種差別撤廃の観点から
時の裁判官はそれを違憲とみなし、
白人と黒人を
同じ学校に通わせる政策(融合教育)をとったところ、
白人側では黒人の登校を拒否する人が出てきて、
あるいは、黒人も黒人で同じ学校に通う事で
いじめや暴力を受け、と
収集がつかなくなってしまい、
果ては黒人生徒が学校に登校するのに
軍隊が警護をする始末。
結局、「融合教育」が落ち着くまでに
10年以上もかかってしまったという騒動。

そして、今回僕が取り上げるアレントの論説は
1959年、まさに「リトルロック事件」の記憶が
まだ新しかった頃のものなのですが、
まあ、今の感覚で考えてみれば
人種で学校を分離すること自体はナンセンスだし、
時間がかかったとはいえ
こういう騒動ののちに、最終的には
白人も黒人も等しく同じ学校で
教育が受けられるようのなったので
これはこれで、めでたしなのかもしれませんが、
この騒動の「核心」は21世紀もはや
四半世紀になろうとしている今でも
決して無くなっていたいと思うのです。

アレントはこの騒動に対してこう評しています。

「私が黒人であれば、
教育と学校のうちに差別の撤廃を持ち込もうとすることは、
成人ではなく子供たちに責任を転嫁するものであり、
きわめて不公正なものであると感じるであろう。」

僕もこれには同感で、いきなり国(大人)が

「お前ら人種差別なしな。明日から混ぜこぜにするから
なんかやらかすんじゃないぞ」

これで解決にはならないと思います。
これで解決と言ってはばからないのは
こういう(差別撤廃)事実を手柄にしたい
国(大人)だけであり、
この場合、当事者である学生というのは
弱者にとっては
「さあみんな、自然にかえれ」と
猛獣が闊歩する野に小動物を野に放つようなものなのです。

今、いろいろなところで
差別や格差をなくすための活動があります。
それはもちろん、しなくてはならない活動です。
けれど、いきなりマイノリティや弱者を
それ以外の人たちと同じステージに上げて
それで、差別がなくなるかといえばそうではない。
上述の国の論理と同じで、
マイノリティや弱者も同じ立場として(ここは良いのですが)
同列となるようお膳立てをして
「いや、これで差別や格差がなくなったね」と
めでたしと本当に喜べる立場の人は
実は、強い立場、あるいは健常な立場の人たちだけでしか
ないかもしれない。

上述の人種差別の問題で、
いきなり異人種を混ぜこぜにしたって
混乱が起こるし、悲しみも増す。
こういうことをする前にまず、
『人を区別しない、すべての人の意識』
が必要であって、これが育たない限り
人の社会の中において「差」があるところには
必ず「リトルロック問題」は
それこそテンプレートのようについて回るのです。

例えば、「リトルロック事件」であれば
『あくまで理想としては』という話ではあるのですが、
人の社会の中から自然に
人種を差別する意識がなくなっていき、
「人種を分離して教育するという法律」って
こんなの今更いらないよね。
もう無くしてもいいよね、これ。
となるのが、綺麗な筋道だったのではないかと思うのです。
限りなく不可能に近いほど難しそうですが。

格差や差別の問題は、
法でどうにかして消えるものではないのです。
それでどうにかなるのなら、
今頃、学校にはいじめは存在しないし、
過酷な競争などなくても安定した仕事を得られるだろうし、
女性だってもっと働く場所が多く与えられているはずです。

そしてもとより、
人の世が行う差別や格差の撤廃というのは結局、
マジョリティのシステムの中で
マイノリティが本当に
不自由なく適応して生きていけるのか、
もしかして、
マジョリティがマイノリティを呑み込んで
不可視化し、内在的かつ根本的な問題、病巣を
スポイルして棚上げしてしまう行為なのかもしれない。

いまだにそういう
矛盾やパラドックスを解決できないのは
まず、そもそもの
僕たち、人のものの考え方、意識、心が
改まっていないからに他ならない気がするのです。

この世界にはまだ、
リトルロックの亡霊が存在している。