魂の片割れ2

以前、「魂の片割れ」とでも
言えるような、
というかそういう表現の仕方でしか
言い表せない人の存在というものがある、
というお話をしました。

具体的にどういう事かというのは
http://l-enfant-d-etoir.net/ayu-ikuya/?p=5900
上記の記事に記してあるので
細かな事は割愛しますが、
そもそも考えてみれば
動物ならば「つがい」という関係で
子孫を残すわけですし、
花は
雄しべと雌しべ一組みで
花なわけで、
そういう観点からすれば
自分と同一の精神性を持つ
真逆のジェンダーの存在があっても
何も不思議ではないのですよね。

むしろ自然と言うか、当たり前。

だからと言って、
上のリンク先の記事で触れたように
「ある種不思議な一体感」を感じた
その人が僕のいわば「つがい」に相当するような、
喩えるなら「魂の伴侶」とでも言うような
人であると考えるのは
いささか早計ではあるのでしょう。

ここで熟慮が必要なのでしょう。

自身の精神と同一の持つ
真逆なジェンダーの存在と感じた
「その人『こそ』」がその人であると
思い込んでしまい、そこにこだわってしまうと
それはそれで、精神の本質から遠ざかってしまい、
逆に「自身とは異なる者」となってしまう。

本来、自分自身の「映し」であったのかもしれない
「その人」も
そうした「他者という異性」と意識した瞬間、
「魂の片割れ」はさらに分離してしまう。
遠ざかってしまう。

その人は自分の中で
「自分」から「他人」に変わってしまうから。

分離すると心が痛い。

故にきっともし
「魂の片割れ」というものが
本当に存在するのなら、
それは特定の限定された「ある人」が
世界のどこかに存在するという意味ではないのでしょう。

おそらく、
僕が感じたような「不思議な一体感」や
「自分とその人は同一の心を共有している」
そう感じた時、
それはそういう人に出会ったのではなく、
あくまで「自分」が
「魂の片割れ」という現象を
体験しただけなのではないかと感じます。

そういう現象はどのような条件に於いて
発動するのかは分かりません。

ただ、その時がやって来た時
自分と、自分とは逆のジェンダーを持った
「自分を写す鏡」の様な人に出会い、
その人と居ると不思議な一体感を感じた。

一生に、そう何度もそんな事は
無いのかもしれませんが、
「魂の片割れ」というのは存在するのでしょう。
あくまで「自分の体験」として。

そしてその体験をさせてくれる相手は
「特定の誰か」という事ではなく、
その時の自身の心に見合った「片割れ」が
その都度存在するのかもしれません。

ぶっちゃけた話
僕もいろいろな女性とお付き合いしてきましたが、
今思えばその時、その時で
彼女たちは僕の「魂の片割れ」だったのかもしれません。
だから愛せたのでしょう。
でなければ、そもそも愛さない。

特定の人が「魂の片割れ」かどうか
というのは、愚問なのでしょう。

もし既にパートナーが居れば、
その人との関係の中で「魂の片割れ現象」を
惹き起こすよう高め合い、昇華する事で
「魂の片割れ」を体験するでしょうし、
仮にそのように感じる人を失ったとしても、
自分を高めれば、
より純粋に自分であろうとすれば、
その純粋さに見合ったさらなる
自身の写し鏡であるところの「魂の片割れ現象」を
体験する事が出来る・・・はず。

「魂の片割れ」であろう人を特定してしまうと、
きっとかえって逆にそうした人には
逢えないような気がします。
たとえ実際にそう感じる「その人」が
「本当の魂の片割れ」とも言うべき
相手だったとしても。

相手を「ある特定の規定」に縛る時、
それは即ち、
自分自身が「その特定の規定」に
縛られている。
そうした「不自然な」心の状態にあっては、
写し鏡であるところの
「魂の片割れ」はうまく写らない。
というか、そっくりそのまま
「不自然」なものが写るだけ。

「その人」かもしれない、
でも違うかもしれない。
本当に「その人」であれば
それはそれで喜ばしい事であるし、
もし違っても、
また別の人に「片割れ現象」を体感した時、
その時の感情は真実であり
また、はじめに「片割れ」と感じた
「その人」と姿は違えど本質的に何も違わない。
ここに真理があるように感じます。

それは何も難しい事では
無いのでしょう。

むしろ最終的に「魂の片割れ」と出会う事の方が
自然なのだと思います。
雄しべと雌しべを合わせて一つの花になるように、
また自分の心に花が咲けば
自分と同一の真逆なジェンダーはそこに現れるのだと
思うのです。

心を枯らさず、腐らせず
育てていれば、
時期が来た時必ず花は咲きます。

「運命の赤い糸」という言葉がありますが
結局それは自分と自分を結ぶ糸の事であるのだと、
その様に感じます。

「赤い糸」の向こう側を失う事など
絶対にあり得ない。
何故なら、向こう側にも自分がいるのだから。

向こう側の人を見失っている時は、
間違いなく自分を見失っているし、
本当の自分を生きていないのでしょう。

自分と
「赤い糸」の向こうにいる自分の
距離を縮めるためには、
そのままの純粋であるがままの自分を
肯定する事が大切なのでしょう。

何故なら「自身を受け入れる事」
それすなわち
「対になる魂の片割れ」を受け入れる事になるのだから。

つまり、あるがままの自分を
どこまで真正面から見て、
どこまで赦せるか。
全てを赦せた時、「赤い糸」の
向こう側にいる自分との位置は
真正面になる。

その先に待っているのは
誰であろうがそれは「自分」なのです。

それが「魂の片割れ」という体験であり
現象なのだと思っています。

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