結局、自己肯定感の強い奴が一番幸せ

人生というものはつくづく、
自己評価100%なのだと思えます。

他者の評価など、
単なる自己評価を決める
「不可欠でもなんでもない」、
いわばば、オマケのようなエッセンスでしかないのだと。

そして、人生の幸不幸を決めるのは
様々、あらゆる条件や状況にあるのではなく、
どこまで「今の自分」を肯定できるかということに
正比例するのだと思うのです。

世の中には、
「え?この程度の満足しているの?」と
思ってしまうような人もいますし、
全く逆に、
「それ以上、何が足りないというのだ?」と
不思議にさえ思える人だっています。

また、
良かれと思ってしていることが
長い目で見ると悪い方に向かっていることも知らず、
それでも、そんな未来にあってさえ、
あくまで自分の状況に対して肯定的な人もいますし、
自己肯定感の低い人であれば、
何一つ、自分の振る舞いに非はないのに、
常にあらぬところから何かしらを見つけてきては、
全て自分の非に結びつけてしまうことでしょう。

人生の幸不幸、
いや、それ以前に
「生き易さ」というものは、
どこまで自分を肯定できるか
「ただそれだけ」で決まるように思えます。

客観的な評価でさえ、
肯定的に生きる人はそれを
肯定的に捉えるし、
否定を前提に生きる人は
その評価も
自分を否定する材料にしてしまうものです。

客観は客観のまま理解することはできないのであるから、
それは完全に幻想と言っていい質のものであると言えるでしょう。

故に、
概念としての幸不幸、または善悪も
肯定に先立つことはできないのです。

簡単にいうなら、
誰がなんと言おうと、
そうであるものは、そうであるし、
そうでないものは、そうではない。
ただし、それは自分の認識の内側での話であるし、
とはいえ、
この世界に、自分の認識の外側にあるものなど
何一つないのです。

そうなれば、どうするのが「生き易い」のか。

たとえ「ぼろ」をまとって
生涯にわたって貧しく人生を終えようとも、
それを肯定できるなら
その人生は幸福な人生であったのだろうし、
どれだけ富や権力を欲しいがままにし、
それを手中に収めたまま人生を終えても、
富にしろ権力にしろ、
そのようなものは何一つ、
自己肯定の足しにならなかったと思って
生涯を終えたとしたら、
その人の人生は不幸な人生だったのでしょう。

自分の生涯は、
自分以外に体験することはあり得ないのですから、
自分の人生の評価もまた、
最終的に自分にしか評価をすることができないのです。

そう考えるなら必然的に、
あらゆることに対して
肯定的に捉える以外に方法はないのでしょう。

ただ、ここで混同してはならないことが
あるとも思います。

「全肯定」に捉える人生を生きることと、
「全智」のうちに人生を生きることは
似て非なるものであるのだということ。

そうであるが故に、
人はその人生において
完全なる自己肯定の認識だけでは、
その人生を実践、成立させることはできないのです。


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