堕ちるところまで堕ちれば上も下もなくなるさ

よほどに神経が図太く、
自分を省みることなど皆無だと
言ってはばからない人ならともかく、
ごく普通のバランス感覚を持っている人であれば、
誰しもが時に、程度の差こそあれ、
自己嫌悪や、自己否定というものを
感じることは当たり前だと思います。

それらの否定感のうちに内省があるからこそ、
人はよりよく成長していけるものなのですから。

ただそれでも、時には
心底に自信を喪失してしまうほどの
自己否定を感じてしまうことのある人も
また、少なくはないと思います。

自分に対しての
否定感、嫌悪感、無力感、
そして閉塞感。

あらゆる「否定」が
自分の精神を追い詰めていく。
そういう経験がある人は
別に何も特別なことではないし、
まして、異常であるわけもないです。

「自己否定」において沸き起こる
苦しみというのは、
往往にして
自分の中で「肯定できる自分」こそが
正しく、真実であって、
そこから自分は乖離、隔絶していると感じる時に
打ちひしがれるものだと思うのです。

「自分は自分自身を肯定できる状態にはない」のだと。

だから、肯定できうる状況へ
修正しようと、追いかけ、もがくから、
疲弊して苦しくなるような気がするのです。

これは「完全否定の密室」から
抜け出せない苦しみであって、
文字通りの「苦悶」なのだと思います。

なぜそのような「苦悶」を感じるかといえば、
「肯定できうるもの」は全て
自分の内的領域の外側にあるものと思い込み、
その自分の領域の内側は否定で満たされて
「本来の根本的な自分の所在」であるところの
内的領域に自分の居場所がなくなるからなのでしょう。

なので、そういう状況にある人は
「完全否定の密室」から
抜け出すことができずに窒息するか、
自分の外的領域に
苦痛を感じなくさせる麻酔や鎮痛剤として
無理矢理にかりそめの自分の居場所を置いくしかない。

どちらにしろ、
自分自身の内的な所在は
未だ完全否定の虜のままで、
時に人は、そのまま
生涯を終えさえもするのです。

要するに
この無間地獄というものは、
「否定的感覚の否定」という
地獄なのだと言えます。

ならば、この負の循環から逃れる術というのは、
上述のように
躁的防御を伴いながら
外的な何かしらに没入して、
感覚を麻痺させるしかないのでしょうか。

そうではないと思います。

結局、
自己否定からの救済というものは、
どん底と感じるまでに
自分を否定し尽くすことでしか
得られないような気がします。

なまじ、「肯定的な理想像」というものを
描いてしまうと、どうしても
その理想像に近づけなければならないと感じ、
それがかえって、
自分の抱える否定感を
無駄に際立たせてしまう結果になってしまう。

そして何より、
「肯定的な理想」というものは
否定から抜け出した後に
構築するものであって、
否定の中にある状況にあっては、
やはり「否定の実像」について
しっかり対峙するしかないのだと思うのです。

井戸に落ちて、
そこから出るために
井戸の上の空ばかり見ていても仕方がないわけで、
這い上がるには
何より、自分の手の届く場所、見える場所に
目を向けなくてはなりません。
そうして、
そこから抜け出すための
足場や、ともすればロープがぶら下がっているかもしれない、
という話。

故に、
心底、本当に落ちたと思えた時こそ、
とことんまで落ちた方がいいのです。
上など見えないほどに。

「こんなところの落ちてしまっているけれど、
本当の自分はこんなところにいるべきではない」
これが抜け出し難い苦悶の考え。
そこにある世界は
『自分の居るべきではない世界』なのです。

「こんなところまで落ちてしまったけれど、
毒を食らわば皿まで。
徹底的に自分を否定してみよう」
この時、否定は肯定に転化し、
そこは「自分の居ていい場所」になる。
これが
『精神の井戸の中のもっとも近い出口』なのです。

否定の中に
完全に没入していく時、
その構造というものは
否定に没入するほどに
全肯定に近接していくのです。
「自ら進んで否定に没入している」ことこそが
それすなわち、
「否定の中に肯定」を見出したことの証。

そして、肯定と否定との関係というものは、
右か左か、という程度の概念に過ぎないことに気づく時、
同時に、
物事を無為に複雑にさせる
自分のエゴあるいは、その内なるドグマこそが
苦しみを作り出す根源であることにも
気づくことができるかもしれません。


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