戦いのない世界を想像できるか?

たとえ、この世から一切の
人を殺める武器や兵器がなくなったとしても、
人は間違いなく
戦争を捨てることはできないと断言します。

兵隊が攻めてきて、
爆撃機やミサイルが飛んでくるような
いわゆる戦争というものは、
「人の中にある戦争」の
ごく一部の「目に顕れて見える部分」であって、
戦争の本質というものは、
人の外側にある出来事ではなく、
常に目に見えない内側で起こっているからです。

大昔(まあ、今でも続いているのですが)、
大きな戦争といえば
宗教同士の戦争でしたし、
宗教の影響力が衰えてくると、
宗教と同様に
それが取って代わって、
ナショナリズムによる対立という
構造に変わっていきましたが、
どちらの場合であっても
そこにあるのは
『人の心の内側にある対立するもの』が
外側に形のなって顕れてきたものなのです。

戦争というものは、
そういう「人同士の心の中の争い」の
物理的な現象を伴う
最終的な「結果」なのです。

故に、
戦いに使う道具を取り上げたところで、
人同士が争いを続ける限り、
何にだって争う道具にしてしまうし、
何一つの解決にもならないのです。

意外と誰もが思い過ごしていますが、
争いは(争いに限ったことでもないのですが)、
破壊的な行為として物理的に現れる前から
『人同士の想念の次元』で
すでに戦っているのです。

いや、「すでに戦っている」というのは
正確ではないかもしれません。

そもそも戦争とは
『異なる対立する想念同士の争い』なのです。
そんな争いが長く続くと、
それが「形のある戦争」へと結実していくのです。

故に、かつてジョンレノンが歌ったように、
皆が平和に生きる世界を想像することが
大切なのだと思うのです。

ただし、
『何一つ、争いを抑圧することなく平和を実践できるなら』

そのようなことは
おそらく人類には無理です。

人類いどころか、
より自然の摂理に近い
動物や植物、そして細菌に至るまで、
自らが存在するために
自身のテリトリーを死守するし、
あるいは他のそれを侵食したりもする。
時には淘汰したり、されたりもする。
それは自然の本質であるし、
人類もまたその例外ではありません。

滅ぼされる恐怖。
せめぎ合う怒り。
生きるための殺意。

これが『戦争の核心』

この自然を生きとし生けるものの
あらゆる存在が持ちうる
ごく自然な衝動を、
「道具を使うことを知っている人間」が
抱くことによって、
それは「戦争」という形になって
現実に現れるのです。

ならば、
他の種の生物と同じように
人類もまた、
戦いに身を投じる性を負わされた存在なのでしょうか。

それは違うと思います。

なぜなら、先にも触れたように
人類は他の動物たちと違って
道具を使うだけの知性を持っているから。

知性は、磨くことによって
精神性を育て、
やがて霊性に至るための
足掛かりでもあります。

人の認識を
「争う心」より上に引き上げることができるのなら、
今は「争い」にしか見えないそれも、
別の新しい観点として、
より深い理解を獲得できるのではないでしょうか。

皆が、そういう認識を持っても、
それでもなお、
戦いは消えないかもしれない。
けれど、かつて「戦い」と呼んだそれも
あながち「戦い」ではなくなる、
そういう境地に到達することができるのなら、
人類は「争い」という
蟻地獄からは抜け出せるのかもしれません。

つまり、
争うこと、戦うことの理解、認識という
解像度が上がるのなら、
かつてジョンレノンが夢見た
人が平和に生きる世界が
そこに出来上がるのかもしれません。

それも、
案外簡単に。


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