嫌いな奴は、嫌な奴じゃないかもしれない

生きていれば程度の差こそあれ、
反りの合わない人や、
嫌いな人というものは
それなりに存在するのでしょう。

嫌いな人は嫌いなままでいいのでしょうか。

思うにおそらく、
嫌いなものを頑なに嫌い続け、
そしてそこから離れたとしても、
それを嫌い続ける限り、
『同じ別の嫌いな物事や人に、
また出くわすことになるのだろう』
と思えます。

嫌いな人(や物事)から逃れたとしても、
それを嫌いな自分は
いつも、自分のものとして常に
自分の内にあるから、
結局、対象となる具体的な物や人、事象が
すげ変わるだけで、
自分がそれに気づき、変えようとしなければ、
いつまで経っても、延々と
何かしらを嫌い続ける羽目になるのです。

おそらく実際のところは、
嫌いな人が現れるのではなくて、
自分にとって
『許せない何かしらを持ち合わせている』ものが
自分の目についているだけなのでしょう。

僕だって嫌いな物や人、事象など、
些細なものまで含めれば
きりがないくらいにあります。
『だから世の中は気にくわない』のです。

けれど考えてみれば、同様にまた
僕もそうやって
『誰かから嫌われる存在』でもあるのです。

なぜなら、僕も含めて
誰だって『嫌われることは嫌』だから。

こうやって、暗になじり合う世界というものは
実に不毛なものこの上ないと感じるのです。

上述のように、
嫌いな人(や物事)というのは、
あくまで「自分が嫌うもの」であって、
いつだって『主体は自分の主観』なのです。

故に、
もしかしたら
そうではないのではないかという
可能性だってあるわけで、
時には「主観の牢」の外へ出て
客観の庭から俯瞰するのも
悪くはないのだと思えます。

腹がたつほどに憎らしい。

今、自分がそのように思えるとしても、
もしかしたら、
その人が善意で為してくれたことの結果を
自分が許せなかっただけなのかもしれない。

虫が好かなくて
話したこともない奴もいるかもしれない。

けれど、
話してみれば意外と良い奴で、
案外、自分と共有できる価値観を
持っていたりもするのかもしれない。

とにかく生理的に無理。

それを無理と遠ざけているのは、
紛れもなく自分自身であって、
相手はただ単に故あって「存在している」に過ぎない。
だとすればむしろ、
理由も、理性もなく、
それを苦手と遠ざけている自分にこそ
非があるという考えもできるだろうに。

何よりそもそも、
嫌いなものの存在を嫌うのは、
『自分がその嫌いなものから
自分の存在を脅かされる恐怖を感じるから』
なのであって、
もし、現実、事実として
特に自分の存在を脅かされる危機に
陥れられていないのだとしたら、
その嫌いなものの存在は
完全に自分の幻想だということになるのでしょう。

「好き嫌い」というものは
「主観の牢」の中に現れる悪魔のようなもので、
その悪魔は決して牢の外では存在できないのです。

自分がその「主観の牢」から抜け出せば、
悪魔に嫌悪を吹き込まれることから
逃れることだってできるのです。

「主観の牢」の出口には
鍵がかけてあるどころか、
本当は扉さえないのだと思います。

その牢から出ようとしないのはきっと、
悪魔との戯れに興じていたい
証なのかもしれません。

飽きれば、
誰でも嫌が応にそこから出てくるものなのでしょう。


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