『リア充=ハロウィン/非リア充=クリスマス』という棲み分けが始まる?

今年は
「クリぼっち」
と言う言葉をよく聞きます。

あくまで、日本に限っての社会現象として、
意外とこの言葉は
真理をついているような気もするのです。

そもそも、
きっとクリスマスという言葉に浮かれるのは
プレゼントがもらえる立場の人か、
あるいは、
未だにバブル時代の余韻を引きずっている人かの
どちらかなのかもしれません。

特に若い人を中心に「恋を忌避する」ような
風潮がある中、
クリスマスというものはもう
「恋人と過ごすものでもない」し、
そういう発想自体が
もう古いのでしょう。

クリスマスはおそらく今、
「ぼっち」の慰めでしかないのではないかと。

(あくまで日本での現象として)今、
クリスマスは
ハロウィンと対極にあるイベントなのだと思えます。

リア充は
ハロウィンの日に
仲間と街を闊歩してパーティーに。
非リア充は
クリスマスの日に
一人でフライドチキンをかじりながら
ネットを眺める。

クリスマス対ハロウィンという構図は
そのまま、
非リア充対リア充という構図に
置き換えられるような気がします。
またさらに、その個的な体験としては、
内と外という構造が基礎になっているのでしょう。

(クリスマス、あるいはハロウィン)という
現象の中における
個人の在り方は、そのまま
メンタリティにつながるのかもしれません。

(あくまで日本における)イベントの趣旨と、
個人の趣味嗜好を考えれば、
明らかにハロウィンは
外的な多くの人間関係中に
身を投じていたいメンタリティと
相性が良いし、
クリスマスもまた
大勢で馬鹿騒ぎをするより
年の瀬を前にして
一人で静かにいられる時間として
過ごすことの方に
親和性が高いのではないかと。

現状、
クリスマスに馬鹿騒ぎするには
クリスマスというイベントの
許容を超えるほどに
人が馬鹿騒ぎするようになって、
その受け皿として
ハロウィンがその役割を果たすようになり、
取り残された「ぼっち」層が
顕在化しているとも言えなくなかったり、
と思えるのです。

ただ、ここで言えることは
上述の説明の通り
クリスマスを生きる人種と
ハロウィンを生きる人種の
ふた通りが分断されて
存在するという意味ではないということです。

一人の心の中でもまた、
クリスマスを楽しめる自分と、
ハロウィンを楽しめる自分とが二分化され、
その位相を自由に行き来することができることを
精神の自由と呼ぶような気がします。

重ね重ね、
「あくまで日本での現象」であることを
強調しつつ、
来年以降は今年以上に
クリスマスは、より内的で静的に。
そしてハロウィンは
より外的で動的にな
「現代の風習」となっていく気がします。

そしてこういう奔流は大局的に
「心の住み分け」へと繋がっていく
先ぶれのようなものであるように思えます。


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