そしていつか人は籠から出る

ジェンダーの問題って、非常にデリケートで
難しいと感じます。
おそらく、ジェンダーの概念は
人のアイデンティティの諸々に分化していく
その中心、核の部分に非常に近いところにあって、
おそらく、それを人はソーシャル(社会的に)に
明確に曝露することなく生活していくものでしょうから。

それだけに、
こう書くと非常にややこしく感じてしまう。
それがこのジェンダーの問題の特徴だと思うのですが、
思うに、今までの旧来の価値観、世界観によって
構築されてきた、つまり「男性中心」の社会において、
まあ要するに結局、古来よりある社会の
『男性による男性のための概念のストラクチャー』においては、
この世には「男性と女性という肉体的な特性」を持つ
二種類の人類がいると規定されているのでしょうが、
いい加減、社会が成熟してくると、
識者でなくとも多くの人が
「ジェンダーの概念というのは単純な二元論ではないよね」
と気づいてくるわけで、
そうすると旧態依然とした社会の枠組みの中で
いろいろなところでミスマッチが起こってくるのも、
考えてみれば当たり前のことなのかもしれません。

結局、人にとってのジェンダーの所在って
どこにあるのだろうと問うなら、
その本質の所在というのはやはり
「精神」に在ると思えるし、
おそらく現代人のイメージするところ、
またあるいは議論されるところのジェンダーというのは
やはりそもそも
『「精神」に属するものであるところのジェンダー』
のことではないかと思うのです。

古来よりのジェンダー観で区別されるところの
男性と女性というのは肉体の特性そのものであり、
個人のアイデンティティを認識、特定するうえで
その肉体の特性としての男女というものが
何より先だって規定されてきました。

まずここが最初の無知だったのかもしれません。

肉体的な男性、女性に拘らず
人の心にあるジェンダーというのは
実は非常にまだらに混ざり合っているもので、
肉体的特徴もそして社会的にも、個人的な性癖についても
男性のものであっても、
その精神性は100%の男性性ではありません。
身も心も実に男らしい振る舞いをする男性の心の中には
女性性の特性を併せ持っているものです。
もちろん、その逆も然りです。

心の世界においてジェンダーというのは
表か裏かというような二元論ではなく、
その『男性性と女性性の混ざり合いの具合』
もっと高次の概念が要求されてきます。
ここまで次元を引き上げた上で
認識、規定される自己、パーソナリティを生きてこそ
おそらく人類は「本当の自分」を生きたと言えるのだと思います。

長い人類の歴史を見ても
豊かに成熟した社会、文明では
「心のジェンダー」が主体の生活をしていた
節があるように感じます。

そして今の成熟した人類の社会、文明というのも
(肉体的な特徴としての)「男女平等」の社会の実現の次に向かう、
「個人平等」の概念の実現、萌芽への方向を
見つけ始めているのかもしれません。

ただどうも、これをイメージできる人と、できない人
つまり、男女の性差を肉体的特徴の二元論を
そのままソーシャルに当てはめて
社会を運用することの不都合さが想像できる人と
そうでない人との間で
その立場の分断が起こっているのが見えかくれしていて、
そんな状況の根っこにあるものこそが、
そういうことなのではないかと思えるのです。

そりゃ、人間、人として生まれて
その生まれながらにして持つに至った
ジェンダーを含むパーソナリティを
素直に生きられたら、それほど良いことはないし、
それこそが心の自由であり、
魂の解放なのでしょう。

ただだからと言って、
ジェンダーの所在を「心」に置いたとして、
自らの心、魂を純然として生活するというのも
それはそれで、
その意味するところの危険性は考えておかないと、
きっとそれこそ人類は完全に滅びると思います。

自分の中にある男性性と女性性を自覚して生きるには
男性性と女性性のなんたるやを理解していないといけないからです。

それでも結局、肉体を持つ生き物であるところの人類は
やはり男性の肉体を持つ者と
女性の肉体を持つ者が一対で存在しないと
生きながらえることができないのだから。

そこを自然の摂理を曲げることなく
いかに自然の中で
人の心と男女性が調和をした環境を実現していけるか、
そしてそんな世界観を
獲得していけるかどうかなのかもしれません。

ただ一つ、きっと確かなことは
今、人類はその自身の認識、アイデンティティを
肉体という籠から出そう、
あるいは出ようとする
模索と挑戦を始めたのではないか、ということ。