土俵とふんどし

コロナウイルス、容赦ねーなーと感じる今日この頃。

イベントなどの自粛もあって、
ミュージシャンとかアイドルとか、
ライブをやってなんぼの活動をしている人は
色々な意味で大変だなと思ったりします。
特に、アンダーグラウンドでやってる人にとって、
生半可な向き合い方をしている人にとっては
アイデンティティそのものを剥奪されるようなもので、
嫌な話だけれど、
ウイルス騒動が長引くほど、何となくいなくなる人は増えると思う。

ちなみに僕はライブ主体の音楽活動をしていないので、
全く影響がないのは、案外皮肉なことなのかもしれません。

長年かけて構築してきた
自分の土俵、自分のふんどし(化粧回しと言うべきか)は
とりあえず、疫病に影響されることはないです。
自分が罹患しない限り。

自分の土俵、自分のふんどしで相撲を取り続けるということは、
結局、意地悪な解釈をすれば「独り相撲」なんですよ。
地位だとか、冨だとか、立場だとか、
要するに、マウンティングしたいがための
そうしたものを得る方便として
自分は音楽を作っているわけではなく、
そういう「他者」あって成り立つ「条件付け」の
入り込む余地のない領域というのは、
表現活動全般に言えることなのだろうけど、
『足場、基礎』に当たる部分だと思うんです。

多くの人は自尊心が満たされる快楽に惹かれて、
そこを持つことをあまり考えない。

まあ、これというのは結局、
若かったミュージシャンが挫折して
ミュージシャンではなくなっていく、よくあることなのですが。

何かしらを表現するということは、
受け手という相手と向き合うこと「だけ」ではなく、
まずは自分と向き合うところから始めなければ、
糸の切れた凧のように人生の乱気流に呑まれて墜落してしまう。
実は僕、これも経験済み(笑)

ここからはあくまで、
僕の音楽との向き合い方の場合は、という話なのですが、
音楽というものに極限まで純粋に向き合って(自分はそうしてきた)
それを音楽、歌という形に転写されたものを、
わざわざ、こちらから出向いて売り込んでいく必要は
ないのだと思っています。

花はわざわざ、見たい人のもとに出向いて咲いたりはしない。
美しい景色はわざわざ、見たい人のもとに出向はしない。
ただただ、「今、ここ」で自分を仕立てるだけでいい。
それが土俵とふんどし(化粧回し)。

その「自分」という菩提にどれだけの人が集まってくるかは、
それはもう「自分の器」(大きい小さいではなく)の問題で、
自分の作品の質とは必ずしも等価ではない。
それを受け入れられず、
足掻けば足掻くほど、自分の土俵やふんどしを見失ってしまう。
そんなもののような気がするのです。

自分は自分でいることこそが重要。
それは同時に、
他者もまた、その人自身でいさせてあげることに
責任を負うことでもあるのかもしれません。

僕の音楽は、自分自身でいる人のそばに
「在る」音楽でありたいと思っています。


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