境界を生きる人たち

なんでも日常生活に支障が出るほどに
TVゲームがやめられなくなると
最近では病気と認定されるのだとか。

依存は、果たして病気なのでしょうか。

でも、これが病気で治療の対象になるのなら
片時もスマホを手放すことなく
何かしらのアプリであれやこれやいている人も、
同様に治療すべき病気の人だと思うのです。

さらに言えば、
SNSに依存してしまっている人だって、
様々な何かしらに支障をきたしている、
という点においては十二分に病気だと思うし、
家庭を顧みずに仕事をする人だって、
家庭という集団生活を送るのに難のある
立派な病人だと言えるのではないでしょうか。

けれど、
そこまで何でもかんでも病気扱いにしてしまっては
きりがないと思えるはずです。
そもそも、
病人扱いして、人は彼らをどうするというのか。

こうして突き詰めてしまえば
そもそも社会という集団の歪さから
作り出された彼らを、
適応力の及ばなさだけで病気と定めてしまうのは、
個人の意思と尊厳の行使という視座から見れば、
もしかすると、
そのように強いる社会の方が病んでいるのかもしれない。

何が言いたいのかと言うと、
集団の中で
「適応しづらさを感じ、浮いてしまうような存在」に対して、
それを病気であり、時には矯正の対象にしてしまうことは、
あってはならないし、
そもそもグロテスクなことでしょう。

物覚えの悪い子だっている。

運動が苦手な子だっている。

音痴もいる。

人付き合いが苦手で、目を合わせて会話をするのが苦手な人だっている。

老いれば誰だって、物忘れは激しくなる。

これらは、病気でしょうか。

確かに健全ではないかもしれません。

健全な人たちは、
彼らの立場、気持ちを慮ったことはあるでしょうか。

健全な人たちは、
声を上げない彼らの居場所を奪って
我が物顔で自分のテリトリーにしてしまっていないでしょうか。

健全な人たちは、
自分の自尊心を満たすためだけに、
都合のいい時だけ連れてきて
彼らを弱者に仕立て上げてはいないでしょうか。

果たして人間社会の中で
マイノリティの側に存在してしまうことは、
病気や障害なのでしょうか。

もちろん、健全であることが悪であったり、
疎むべきものであると言うのではありません。
誰しもが健全であるべきなのは
当然、求めて良い理想ではあります。

悪であるのは、
健全であることを当たり前とし、
そうでないマイノリティを
病気だの障害だのと、
あるいは、どこか毛色が違うだとか
虫が好かないだとか言って
自分たちと彼らとの間に
「越えるべきではない線」を
設けてしまうことだと思うのです。

そして、その線が
やがて社会の共通認識となり、
やがて法によってまで線が引かれることこそが
もっとも怖い。

法的に保護されているからではなく、
人として弱者に「フェアにして寛容」であるという
認識が広く人の心の基部に育たなくては
この社会から
貧困や差別、格差は絶対になくならないでしょう。

明らかに治療や矯正が、
本人にも社会にも幸福となりうる人たちも
間違いなく存在しますが、
そうした人たちより、
もっと境界が曖昧な社会的フェイズを
身を縮めて生きている人の方が遥かに多いと思うのです。

彼らにとって、
ごく身近な不都合というのは、
医療や福祉、行政サービス的な不都合ではなく、
周囲の健全なな人たちの
奇異なる目線である気がします。