過剰サービス不要論

無理やりに売る気満々な意思を前面に出して
「買ってください!!」
というのは、非常に格好悪く思えるのです。
もちろん、「物」だけではなく
サービス全般、全てにおいてです。

そういうマニュアルで仕事をしているから
仕方のないことではあるのでしょうが、
こちらが一つの購入(契約)目的を果たせば
それだけでいいのに、
手続きのやり取りの中で
「あれはどうですか、これはどうですか。
今なら云々かんぬん・・・」
と、ぎっちり詰め込んでくる「社員」を見ると
もういいから、AIに変われよ・・・、
と思ってしまうのです。

つまり結局、転じてそれは
完全に「企業イメージ」あるいはブランドに
直結してくるのだと思えます。

受け取る側の好みによるところも
大きいとは思うのですが、
「攻め」で売ってこようとする
人や会社を見ると、
末端の営業、接客、受付等の
役割を受け持つ「その人個人」ではなく、
その上だか、頭だかについている
「看板」そのものに
品格を見出せなくなってしまいます。

こういう絨毯爆撃的な営業行為が
まかり通っていたのは
昭和まで。あるいは、平成に変わった直後の
バブルが弾けるまでくらいのもので、
さらに元号も変わった令和の時代になっても
まだ、そのような亡者のごとき商法が
正当性を持ったままでは、
結局、最終的に末端となる
いち消費者というステージに立った時、
何一ついい事はないのは明らかだと思えます。

『是が非でも売らなければならない』
そういう意識を組織の上層が持ってしまうと、
組織の中の実行層は、
それを全うするために
どう戦略を取らなければならなくなるか、
それを考えると、
結局、過剰なサービスや安売りに行き着いてしまうのです。
順を追って考えてみれば、
誰も得をしていないのです。
いや、正確に言えば
過剰なサービスや安売りに目が眩んで
ぐるぐると循環し滞留する
泥の渦というエコシステムを考えた人だけが
利益を得るのです。

必要以上に光ファイバーに信号を流す事で、
何を得て、何を失ったか。

必要以上に安く売る事で
どこが儲けて、どこが損をしたのか。

必要以上に早く商品が届く事で
誰が笑って、誰が泣いたのか。

その物を売る「その会社」は
果たして本当に「満足」を与えてくれるのか。

過剰なサービスや性能、あるいは安売りを
仮に廃したとして、
その時、「商品(サービス)の本質」を
保持していられるであろうか。

それを維持して
横並びの中に現れてくるものこそが、
ブランドの品格であり、
そこに宿る神格ですらあるかもしれません。

それを見極め、選択する知恵を持たない社会は、
もっと全域において格差が広がり
社会そのものさえ
維持できなくなることもあり得るかもしれません。


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