きっと愛は忍耐の中でしか学べない

おそらく、
もっとも高尚で力強く、偉大な愛の形というのは
「寛容さ」なのだと思えます。

人間の全てが
完全なる寛容さを基底とする
価値観を身につけることができれば、
おそらく、この世界の住人は
あらゆる苦しみや悲しみから解放されるでしょう。

けれど、このような「寛容」という概念も
その対となる概念なくして成り立たないものだと思えます。
つまり、「寛容」という概念の
バックボーンとして
何に寄って立つ「寛容」であるべきか、
ここはよく考えるべきことなのかもしれません。

何もかもを「赦す」ことがもたらす社会は、
決して平和ではないでしょう。
おそらく、今の人間の社会に陥っているのは
この「寛容」の履き違いによる混沌なのでしょう。

例えば、
間違いを放置することも、
正すこともできる。
これを自由といい、
「赦す」という概念の基礎になるものなのですが、
この基礎に
「無関心」というバックボーンをもって
寛容を実践してしまうと、
それは摂理の健全性を失いかねません。

全体の健全性を保つために、
ごくわずかでも概念の中心に
「不寛容」な要素の内包を許容することも
「寛容」であるのです。
その「寛容であるための不寛容」を
あるいは「慎み」というかもしれません。

いずれにしろ、このように
大いなる節制の純然を保つために
些細な混沌を受け入れるには
「忍耐」が必要となるのだと思います。

苦しみや悲しみのない世界を望むとき、
その実現には
苦しみや悲しみという存在を認識し、
それを耐え忍ぶという行為をし
相反する概念とのバランスを取ることが、
結果的に、もっとも偏らない
「寛容」を育てることに繋がるのではないかと
思えたりもします。


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