井の中の蛙こそ幸福の本質

人は誰しもが
「井の中の蛙」なのだと思えます。

自分の生きる、その井戸の中から
生涯、抜け出すことはできないのです。

けれど、その一生抜け出すことのできない井戸というのは、
決して暗闇ではなく、
自分の井戸の中ら、他の人の井戸の様子を
うかがい知ることのできる
テレビ画面のような井戸なのです。

自分より温く、甘い井戸に
住んでいるように見える人もいるだろうし、
あるいは、自分より劣悪な汚泥の中に住んでいるように
見える人もいるでしょう。

あるいは、
自分の井戸の水が汚すぎて
全く、外の井戸が見えない人もいれば、
逆に綺麗すぎて、
人の井戸の中が
まるで自分の井戸の中のように見えてしまう人も
いるかもしれない。

人の井戸の中へ入ることはできないけれど、
他の人の井戸の「外側」のことだけは見えてしまうから
何れにしても、これらは
自分の井戸から見える外の様子と
自分の井戸の中の環境から導き出された、
自分の主観という「想像」から、
自分の内側と外側の世界を把握するしかないので、
故に決して客観的に正しい評価を得ることはできないでしょう。

だから、人は
自分の井戸の外へ出ることのできない
蛙でしかないし、
その中で生涯過ごす存在であることを
自覚することが幸福であり、
それを幸福とする以外に
自らの人生を幸福と評価することはできないのです。

自分の井戸の中よりも
もっと広い世界がある、
そう思って飛び出そうとすると
人生は途端に息苦しくなってくるのです。
なぜなら、
魚が陸に上がって生きられないのと一緒で
人は自分の井戸の中でしか生きられないのだから。
もがいて、外へ出ても
そこに自分が生きられるような世界は存在しないのです。

にも拘らず、
外界、つまり他の井戸の住人と
自分の井戸の中から
コミュニケーションを取らなければ
世界は成り立ちません。

これこそが
『世の中が公平ではない理由』
なのです。
換言すると
『世の中が均一ではない理由』
でもあるのです。

自分という存在は、
自分の井戸の中で
自分の主観だけで、
自己を評価し、
自分にしか通用しない幸福を
自惚れという碇に繋がれて井戸の底に呑まれそうになりながら、
自分一人で自分を救済しつつ
自分の中の井戸の水が濁らないよう
純麗さを保つこと以外に
帰結すべきところはないのかもしれません。

もしかすると、
自分の井戸の外側にある
他の井戸の存在を知らないことこそが、
最も人をして、
幸福を感じられる状態であるのかもしれません。