ブランド考(距離感)

前回の2つの記事で
「普遍性と希少性のバランス」という観点から
ブランドというものの概念について
考えてみました。

そして、もう一つ要素として考えるべきなのは
「距離感」でしょう。

距離感が近ければ
コモディティ(ありふれたもの)になって
手を伸ばしやすくなり、
逆にこれが遠ければ
希少性は上がりますが
当然、手が届かなくなる。

そしてこの距離感が適正であるほどに、
安定したブランドとして
認められるに足るものとして
認知されるような気がします。

例えば、
今年の初めに、僕が初詣に行って思った、
「神様の概念」と「芸能」の類似性についての
記事があるですが、
これというのは最たる例で、
より客との距離が近くなっていく質の芸能は
近くなるほどにチープになるのに、
それに反して
神様の本質、つまり「ご神体」は
出てきもしないのに、
信仰の対象として、ことあるごとに
祭りとして人を集め、
時には精神的な方向性を示す
オピニオンにさえなり得るのです。

この差を生むものこそが
「距離感」なのだと思うのです。

それこそ、
自分の大好きなアーティストがいたとします。
その人は結構頻繁に
コンサートをやりに街に来るとします。
果たして、このコンサートに自分は
毎回参戦するでしょうか。
参戦しなければファンではなくなるのでしょうか。
1回も観に行ったことが無かったら
ファンではないのでしょうか。
そういう訳ではないでしょう。
生で見たことがなくても
好きなものは好きというのは人の心です。

と、すればです。

必死で友達をかき集めて
平身低頭でチケットを売って、
ようやく観に来てくれるそのお客さんというのは、
果たしてファンなのでしょうか。
おそらくもう、コンサートでもライブでもなく、
ただの「仲良しの寄り合い」でしかない。
これはジャイアンリサイタルです。

もう一度目を戻すと、
普段の神社は閑散として人もいない。
にも拘らず
「神様」という存在意義は少しも揺るぎません。
神社に行かなくとも
神様〜!と願うことは罪でしょうか。
ご利益は神社に賽銭を落とした人のみが
神の恩寵を受けられるのでしょうか。

ここにブランドの有無の差があるのでしょう。

わざわざ直接出向いて
お札やお守りや経典(これは仏教ですが)を
押し売りまがいに営業するのも
別に悪いわけではないのでしょうが、
それを100人とか1000人とかやっていくの?
という無理が出てくるわけで、
その営業の限界たるところの頭打ちが起こるのです。

自分が贔屓にしているアーティストは皆、全て、
営業されて追いかけている人でしょうか。
おそらく、大物のアーティストであるほどに
会ったどころか、ステージ以外で
実物を見たことがないはずです。
なぜなら、本物のそれは「ご神体」なのですから、
適所にしか現れないのです。

身近に友達のようにお話ができて、
というそれは
ブランドに触れているわけではなく、
それは似て非なる「別の商売」なのです。

ゆえに、これは
前述、上述の定義における
ブランドとは言い難いものとなるわけです。

もちろん、「それ」に何を求めるか、
というのは受け手の自由です。
自分の居心地のいい距離に身を置いたらそれでいいのです。
ただ、この距離感を適切に保って
それこそ「ご神体」のように大切に扱わないと、
それは見事に穢れて壊れてしまうものなのです。

自然発生的に伝播し、無理なく受け入れられるものは
長く続く真のブランドであるし、
この世のあらゆるブランドは
こうやって構築されたものなのです。


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