労働と奉仕

労働というと、人はそこに
どのような意味を見出すのでしょうか。

それは喜びのうちに能動的に行われるものでしょうか。
あるいは、朝が来るのも嫌になる程に
苦痛なものでしょうか。

いずれにしても、
労働というものは本来、
純粋な意味に於いては
他者から指図、あるいは命令されて取り組むものでは
ないのだろうと思うのです。

実際的のこととして考えれば、
これは完全なる理想論でしかないのでしょうが、
それでもなお「労働の本質」を突き詰めていくなら、
それらはやはり、「奉仕」である
というところに行き着くのだろうと思います。

平たく言うなら、
「タダ働き出来るのが本当の仕事」であって、
人の営みというのは、
それを「人の本質を曲げない絶対的な前提」
として考えたうえで、
人はその己の人生、あるいはそれを生きる
社会のなかで、いかに利益を得て
生きながらえるのかを
考える必要があるのではないか、という事。

この論理を、いま少し視点を変えて展開するならば、
「人はタダ働きの営みを維持する為に利益を得るべき」
である、という事。

人間はもう長い間、
労働とその対価について、
その本質を見え難くするような価値観を
癖のように信じてきました。

こと働くことに関しては、
ピラミッドが造られていた時代の
エジプト人の社会と、
根本的な部分はほとんど変わっていないほどです。

しかし、この価値観では
人間は逼塞していく一方であると思えます。
この価値観、つまり
従来通りの常識的すぎるところの
労働と対価の概念は、
ほとんどの多くの人にとっては、
「苦」によってのみ生み出し得る富なのですから。
お金に依存して生きるということは、
それ即ち、
苦痛に依存して生きるという事なのですから、
それは人にとって永続的に運用できる質の
ものではないのです。

こうした「無理」をはらんだシステムが
今までまかり通って維持され得たのは、
社会システムや産業や医療の技術がまだ未熟であり、
物質的なものも十分ではなく、
かつ、全体が不均等にしかそれらを
享受できなかったからです。

けれど、これからはそうではありません。

これからは、どんどん
日進月歩で
あらゆる不可能なこと、
つまり、不都合や不便が解消されていくでしょう。
そして、それに反比例するように
人間の人口は減っていきます。

人間の人口よりも
巷に氾濫する物事の需要が上回る、
そういう時代になれば、
物や仕事の価値はどんどん下がっていき、
貨幣の価値も次第に形骸化していくでしょう。

そうして、あらゆる物事が
自らの時間や労力を対価として支払うには
割の合わないものになっていくのです。

そういう「割の合わない」ものを、
人工知能やロボットが
代わりにやってくれるようになって、
かつ、生きていくための身入りの心配も
する必要のなくなった社会で、
「何もしなくて良い人間」は
何をして人生を生きるのでしょうか。

そうなった時、
必然的に人は「他人が喜ぶこと」
つまり、無償、あるいは
運営維持のための最低限の報酬による奉仕のみが
社会、外界、他者との接点になり得るのです。

こういう時代は
遥か未来の話ではなく、
おそらく、僕だ年老いて死にゆく年代、
つまり、30年、40年先には
やってくるのではないかと思います。


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