ストロー革命

最近(2018年現在)、プラスチック製のストローを
廃止する動きが、拡がりつつあります。

異常気象に地震、火山噴火、
そして犯罪や戦争の種。格差。貧困。

こういう限界に近いネガティブな問題が
世界中に蔓延している中にあって、
プラスチック製品の使用の制限というのは
一見して些細なことであるようで、
実はこれこそが
この地球上における人類の
数少ない希望の火である気がします。

今や、プラスチックというのは
我々の生活には欠かせない素材ではあります。

例えばそれは
石ころ木の枝を
投げたり叩いたりしていた時代から始まり、
それが石器となり、
そして土を焼いて陶器が作れるようになり、
やがて鉄を精製する技術を身につけて、
それを型に流して、同じものを
たくさん生産できるようになっていき、といったような
人類の「道具」の歴史として時代を分類するのなら
およそ第二次世界大戦以後の人類というのは
『プラスチック時代』であるのだと思えます。

そして今、この時代の利器が
生態系に深刻なダメージを与えていることに気づき、
過度のプラスチックの乱造を
食い止めようとする声が上がるのは、
おそらく今の時代そのものが
人類史の大きな節目にあるからではないかと
思えるのです。

プラスチックの原料である石油もしかり、
金属もそうなのですが、
こうした重い物質(というか分子構造?)のものは
確かに実に便利なものです。
けれどこれらが増えすぎる不利益なことの方が
多いのかもしれません。
何に不利益かといえば、
純然としてこの地球環境を生きる生命にとって。

人間がこうしたもので
汚してきたものの多さを考えると、
プラスチックの使用を減らすくらいで
失った環境が復古するとも考えられませんが、
そうした実質的な行動以前の次元として、
人間一人ひとりがほんの少しだけでも
『地球を癒すことに意識を向ける』
たったそれだけのことで、
世の中はきっと良くなるのではないかと。

地球には、たったそれだけでも
現実が動く可能性を持つだけ
人間が生まれ、そして実際に生きているのだから。

この地球に生まれ、育ち、
そしてやがて死にゆくその前に、
次にこの地球を使う人のことを考えて
その環境を綺麗にしておくことは
ある種の大きなマナーであるとは思えないでしょうか。

例えば、今年(2018年)の
サッカーのワールドカップで
日本チームの控え室が試合後綺麗に片付けられていて
世界中で称賛を浴びたということがありました。

こういう、小さな美徳の話としてそう思うのです。

それは別にリベラルやスピリチュアルな話ではないのです。

同じ地球人として、
また、次に来る地球人のために
地球を綺麗に、心地よく使えるように、と。

異常気象に地震、火山噴火、
そして犯罪や戦争の種。格差。貧困。
略奪、疑い、嫉妬、恨み、妬み・・・。

こんなもののことは、
もう考えなくてもいいのです。
知らなくてもいいのです。

この地べたと一緒に、
誰しもが身も心も喜ぶような
そういう地球を思い遣れる環境を、
まずは、心に思い浮かべてみようじゃないか。

そうすれば、
誰も悲惨な死に方なんてしない。

無駄なプラスチックが減ることで、
あるいは、
それがちょっとしたきっかけとなって、
そういう理想の世界に
きっとほんの少しであろうけれど
近づくことができるような気がするのです。