優しい理解

ここ数年で、
自分のメンタリティが急速に
丸くなっていることに気づきました(笑)

歳をとって丸くなった、
という話は昔から言われるところなのですが、
その「丸くなりかた」には
2種類のものがあるように思えます。

一つは、
妥協と惰性のうちに丸くなるタイプ。
もう一つは
寛容と忍耐によって立つ丸さ。

そのうちの前者の「角の取れかた」は
あまり褒められた「丸くなりかた」では
ないかなという気もします。

妥協と惰性に埋もれて、
さらには何ものも感じ得ないほどに
感性が鈍くなることは、
人として
全くエネルギーを失った状態なのではないかと。

と、
以前であれば、上述のような
前者のタイプのようなメンタリティに
強いアイロニーを抱いたりもしたものなのですが、
今はこう考えるようになりました。

それを、妥協や惰性であると
断じているのは、つまるところ
まさに僕、自分自身なのであって、
妥協や惰性に埋もれているように見える
その人自体は、
他の誰しもと同じように
それなりに、葛藤したり、思い悩んだりしているのだ、と。

結局、こういうこと、つまり
人それぞれの人生というものは、
その人本人のみ知り得るものであって、
他人から見えるそれとは、
その趣は必ずしも合致するものではないのだろう、と。

小難しく書きましたが要するに、
何においても
『優しい理解』ができることが
自分の人生を豊かにするのだろうな、
ということ。

この『優しい理解』というのが、
冒頭の「角の取れたメンタリティ」で挙げた
2種類の「丸さ」のうちの
後者である、
寛容や忍耐からくる「丸さ」になるのではないか、
そう思えるのです。

生きていれば、
カチンとくることや
窮屈に感じること、
プライドを否定されるようなこと、
色々なことを経験するわけで、
そういう「ストレス全般」をひっくるめて
「優しい理解」で認知し、受け入れることで、
結局のところ、誰が穏やかでいられるかといえば、
自分自身そのものなのですから。

尖ることは決して
悪の象徴や特権ではありません。
それ自体が「己の行き方の方向性と力」であって、
そこに善悪の概念は存在しません。

であるのならば、
何かを傷つける為のみに
尖る必要もないのです。

美しく尖る時、
もしかするとその根底には
「優しい理解」があるかもしれない。

そしておそらく、それは
「悪意ある尖り」など比べ物にならないほど
鋭いはずです。


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